加古川地域にある、石造物について『加古川市史(第七巻)』の一部読んでおきます。(文体は、すこし変えています)
加古川市内の中世石造物
県下に鎌倉時代の石造物は50基あるのですが、このうち播磨は26基で、その中で、加古川市が11基を占めています。
しかも、1基を除くと、他はすべて平荘町に集中しています。
同町の鎌倉中期の歴史を研究する上で貴重な史料です。
注目すべきは、石造物の内、層塔の分布が目立って多いということです。
中世の石造物の内、層塔は規模が大きく、それだけに製作に要する費用がかさみます。
その分布が地域の経済的基盤を反映するといってよく、5基が平荘町・上荘町に分布し、中で3基が中期、2基が後期であることは、鎌倉時代における平荘町の経済的基盤がきわめて豊かであったことをしめしています。
次に、年代のあるその他の石造物についても考えてみます。
加古川市域に分布している中世の石造物、すなわち慶長末年(1615)以前のものは43基を数えます。
このうち平荘町は18基を占めています。
造立に要する負担が重く、その分布がまた地域の経済力を反映するものとみなければならないから、このことからも中世の平荘町の豊かさが知られます。
・・・・
『加古川市史』は中世の石造物が平荘町に多いのは、当時(中世)の平荘町の経済的豊かさにあるのだろうとされています。
経済的に豊かな地域は、平荘地区だけでなく各地にあったと思われます。
それでは、なぜこの地域に特に多くの石造物が多いのかという疑問が残ります。
ここから、素人の飛躍した考えです。
たしかに、この地域は街道筋(湯ノ山街道)にあり、加古川の水にも恵まれた地域でした。
しかし、もう一つ大きな特別な集落であったと思われます。
それは、平荘は西大寺の有力な荘園であり、西大寺の(伊派の)石工集団の活動がありました。
『加古川市史(七巻)』も、次のようにも書いています。
・・・・県下における中世石造美術の中心は、現在、神戸市東灘区御影町に属する石屋であり、その作品は摂津を中心に、広がりを持っています。
しかも、その石造美術は大和の直系であるが、単なる技術の伝播でなく、大和の伊派の石工が、ときには定住し、ときには注文に応じ出張して製作したものである・・・・
報恩寺(平荘町山角)は、西大寺の有力な真言律宗の寺でした。
当然、文観とつながりが考えられます。
平荘町には多くの石造物が残っていますが、伊派の石工集団の影響も抜きには考えられないのではないでしょうか。(no3438)
*写真:向かって右の石仏は地蔵像です。この地蔵像の背面に大日如来を表わす梵字が彫られており、梵字の下に、弘安四年(1281)四月廿日の銘があります。(平荘町池尻:地蔵寺の石棺仏)
*きのう(4/25)の散歩(11.160歩)
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