またまた、「文観を追え」に突然、「文観を追え」関係がないような「五ヶ井用水」の話が飛び出しました。
辛抱して、お読みください。
五ヶ井用水(1)
加古川市内には五ヶ井用水という大規模な、歴史のある用水があります。
ところが、五ヶ井用水については、記録がまったくといってよいほどありません。
もちろん、『五箇井記録』(五ヶ井土地改良区所蔵)・『五ヵ井由来記』(加古川市大野荒木家・中津町内会所蔵)があるのですが、ともに明暦三年(1657)に大野村の荒木重門が記したものです。
五ヶ井用水の伝承
『五箇井記録』にある伝承のあらましをみておきます。
日向明神(日岡神社)の導きにより、神社の北西に「岩鼻之井」という井堰がつくられました。
用明天皇(聖徳太子の父)の時代に、聖徳太子は加古川地方に田地200町歩をつくろうとされ、日向明神と相談されました。
その場所は、神社のそばの橋の所で、この橋を「談合橋」といいます。
そして、加古川大堰の東岸の辺りから、三つの地点を結んで用水路が掘られました。
その三点は、五ヶ井用水の取り入れ口近くにある「太子岩(上の太子岩)」と日岡神社の西にある「太子岩(下の太子岩)」、それに鶴林寺の三重の塔で、これらの三点を結ぶ線で井溝が掘られました。
この溝のおかげで、以後この地方の人々は水に苦しむことはなくなったのです。ざっと、こんな伝承です。
『五箇井記録』では、五ヶ井用水は、聖徳太子の時代に計画され、完成したとしています。
五ヶ井用水は聖徳太子の時代に造られたのか
鶴林寺の『鶴林寺縁起』では、「聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に命じて堂をたてさせ、高麗(こま)の恵便(えべん)を僧とした」とあります。
しかし、寺域から飛鳥時代はもちろん、奈良時代の古瓦などが全く出土していません。
それに、建築様式などから鶴林寺は平安時代初期の創建と考えられます。
そして、後に紹介しますが、鶴林寺の「太子信仰」は、四天王寺との関係により生まれたものです。
五ヶ井用水と聖徳太子のつながりは考えにくいのです。(no3424)
*写真:五ヶ井用水、七ツ杭分水所
東(左)の溝は、美乃利・間形方面へ、西(右)の溝は、溝ノ口・平野方面へ流れ、さらに複雑に入り組み五ヶ井郷の村々を潤します。
◇きのう(4/11)の散歩(10.395歩)
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