入ヶ池(2)
復習です。
先に紹介したように、天満大池の造築は、伝承では白鳳3年〈675)と伝えられています。
しかし、当時、こんな大きな池を造る技術はなく無理であったとしました。
こんなに大きな池を造れば土手にかかる水圧はすごいものです。
奈良時代以前の技術では天満大池のような池と造ることは無理で、農業の盛んになり、技術が発達した天満大池の築造は鎌倉時代であるとしました。
当然、西大寺の農業土木集団の技術が利用されたと考えられるのです。
入ヶ池の築造も鎌倉時代か?
一方、入ヶ池は和同7年(714)の築造(工事開始時期は644年)で、天満大池とほぼ同時期に造られたといいます。
とすれば、入ヶ池も和同年間につくられたとするのは無理があります。
入ヶ池も天満大池と同様、鎌倉時代の築造と考えられるのです。
史料から考える
ここでも先に紹介した資料「道常寄進状」(相模円覚寺文書)の一部を現代語訳で読んでおきます。
・・・播磨国五箇荘の中の蛸草北村は、鎌倉幕府を実質的に支配していた北条氏から御恩として北条氏の家臣である私(道常)が頂いた所領ですが、公私の追善供養のために寄付したいと考え、北條家にお尋ねしたところ、許可されましので、私が死んだ後は円覚寺に寄付申し上げます・・・
・・・
上記の史料にいう「蛸草北村」は、現在の北山(稲美町天満北山)と思われます。
なお、入ヶ池は地図を見ると北山集落と少し離れているようですが、北山の池で、集落と池は曇川でつながっています。
入ヶ池の築造も西大寺の土木技術集団と結びつき造られたと考えるのが自然です。(no3423)
*写真:現在の入ヶ池の夕暮れの風景
◇きのう(4/10)の散歩(10506歩)
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