ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(244) 近世の加印地域 高砂篇(23)、申義堂(3)・申義堂は、小人数教育

2018-07-25 08:29:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    申義堂は、小人数教育

 岸本家に、天保六・七年(1835・6)の「素読出席人目数書上帳」2冊、天保九年(1838)閏四月から九月までの(八月分欠)「素読并講釈出席人書上帳」5冊が残されています。

 これによれば、この期間の生徒数は10人から15人の範囲であり、この時期は天保飢饉後で低下していた可能性はあるにしても、やはりそれほど多いとはいえない人数です。

入学年齢がわからないのは残念ですが、おそらく寺子屋段階の学習を修了した後、十代前半か半ばで入ってきた者たちだったのでしょう。

     ほとんどが町民の子弟

 出席状況は、天保六年の10名の内190日というほぼ皆勤を最高として、100日以上の出席者が6人、他の4人は50日以下というように差が大きくなっています。

 天保七年在学の12人の内、出席日数のわかる10人についてみると170日を最高として100日以上6人、他は50日以下となっており、両年を通してみると六割は比較的精勤ですが、四割は素読という学習にやや挫折するところがあったようです。

 なお、両年とも出席良好者には褒美が与えられました。

 天保六年には、上位3人に半紙一束と墨一挺、その他7人には墨一挺が与えられ、良好でないものも含めて在学者全員に与えられています。

 天保七年も同様で、上位2人には半紙二束、他の者すべてに半紙一束となっています。

 これは、藩からの賜与ではなく申義堂自らが行う慣例であったようです。

 生徒の肩書の記載には、たとえば「柴屋三郎兵衛倅瀧之助」とあるように、ほとんどは高砂の町内の町民子弟であったとみられます。

      申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

 美濃部秀芳(美濃部達吉の父)は、文久三年から申義堂で素読を担当しました。

 彼は、天保21年(1841)8月24日に生れで、父は高砂でただ一人の蘭方医の美濃部秀軒でした。

 秀軒の妻・秀芳の母は、申義堂教授であった三浦松石の娘であり、秀芳と申義堂との関係は深く、秀芳も申義堂で学んだにちがいありません。(no4529)

 *『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照

 *写真:審議堂の先生・美濃部秀芳

 きのう(7/24)の散歩(11.539歩)

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