ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(243) 近世の加印地域 高砂篇(22)、申義堂(2)・申義堂と岸本家

2018-07-24 08:18:29 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

           申義堂と岸本家

   江戸時代、高砂の町に岸本家という豪商がありました。

 『加古郡誌』に「申義堂の建物は高砂町岸本家の寄附によるもので、明治維新後廃藩の時に廃校すると共に、この建造物を岸本家に下付せられたといふ」という記述があります。

 たしかに、申義堂は、設立のはじめから岸本家と深い関係がありました。

 明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となり、廃校のさい、申義堂の建物は岸本家に下付されています。

 木村重圭氏が「申義堂が創立されようとするとき、大年寄(大蔵元)であり、また姫路藩六人衆の一人であった岸本家の当主(四代目岸本吉兵衛)により、土地と建物が提供されたものと思われる」と述べておられる。

     岸本家の私有にあらず

 申義堂は、藩からわずかな給米は与えられましたが、実質は岸本家をはじめとする高砂の町民あるいは大年寄を中心とする有志によって設立運営が行われたたようです。

 したがって、申義堂は特定の家との直接的結びつきは避けて、大年寄という町の「公」を代表する者によって管理運営されたといえます。

        申義堂の教育、素読(そどく)が中心

 申義堂の教育について具体的に知られる史料がないため、詳しくは分かりません。

 しかし、申義堂の最末期、幕末維新期に教授であった美濃部秀芳(美濃部達吉の父)が、明治17年(1884)に記した「高砂尋常小学校学校沿革史」には申義堂の設立を簡単に記したあと、教育についても述べています。

 これによれば、申義堂は、元旦と五節句(正月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)そして、毎月の5日・15日・25日が休日で、そのほかは早朝より正午までの間、町の児童に四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・詩経・書経・礼記・春秋)の儒学などの素読(そどく:漢文の書物を解釈はあとにして声に出してくり返し読む)を行い、1の日と6の日、あるいは3の日と8の日は経書(四書五経)か歴史書の講義を行っていたようです。

 その中で、進歩した者には会読(二人以上が集まり読解しあう)または、臨講(数人が順番に講義しあう)を行わせ、とくにすぐれた者を選んで素読の補助をさせました。

 申義堂の教育対象は児童で、成人は対象とされなかったことがあらためて確認されます。

     生徒は、寺子屋等で読み書きの既習者

 教育内容は、儒学書の素読が中心でした。

 ということは、ここへ学習しに来る生徒は少なくとも、一般的な読み書きはすでに寺子屋等での学習を既に修了した程度の能力を有する者たちでした。

 でなければ素読についていくことは困難であったようです。

 申義堂における授業料がどの程度のものであったのかも残念ながら分かりません。

 町民からの寄金にもよるが、無料あるいはそれに近い形がめざされた可能性はあります。

申義堂の維持運営費については生徒の負担はおそらくなかったと考えられますが、教師への謝礼はなされたと思われます。(no4528)

 *写真:申義堂に掲げられている額(姫路藩家老:河合寸翁筆)

 ◇きのう(7/23)の散歩(11.087歩)

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