高砂は、年貢米の集散地からスタート
近世の高砂は、加古川河口の商品集散地として繁栄してきた港町でした。
もともと、蔵所・蔵米津出地として建設された港町で、取り扱い品の中心は年貢米でした。
加古川流域には流域藩領の他に、多くの大名領・旗本領が入り組んでおり、その数は20余家にもなっていました。
元治元年(1864)のある記録によると、高砂に集まった姫路藩米・他藩の大名米・旗本米の合計は65万5000石で、うち8割強が姫路藩領の年貢米によって占められていました。
これらの多くの年貢米が高砂に集荷され、大蔵元によって売りさばかれたのです。
年貢米の多くは高砂で売りさばかれる
「姫路米の行き先は、これまで大坂で売りさばかれた」とするのが大方の説でした。
ところが、文化十二年(1815)十月の「高砂南卸蔵出米控帳」によると、大坂廻米のほかに半分近くが地元高砂で売りさばかれているのです。
販売を請け負った商人は、網屋太右衛門・塩屋次右衛門・三草屋勘左衛門というように、いずれも高砂の米仲買商で、とくに網屋・塩屋はのちの高砂町の大蔵元でした。
また、小西新右衛門は伊丹の酒造家で、大名貸を兼ねた豪商です。
この年姫路藩は、小西に4万3干両の負催があったので、この米はその返済に充てたものだったのでしょう。
ともかく、こうして姫略米の半分近くが高砂で売りさばかれて、商人米になっていたことは注目されます。(no4513)
*『近世の高砂(山本哲也著)』(高砂市教育委員会)、「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照
*挿絵:高砂米蔵(百閒蔵)の今
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