ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(245) 近世の加印地域 高砂篇(24)、申義堂(4)・申義堂は残った

2018-07-26 07:40:54 | お爺さんが語る郷土の歴史

     申義堂は残った

   申義堂は明治4年廃校になりました。その後の申義堂について紹介しておきましょう。

 廃校になった申義堂について、『高砂市史(第二巻)』は、次のように書いています。

 少し書き直して紹介します。(文体も変えています)

 ・・・申義堂は、明治4年に廃校となりました。
 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 現在、再建された申義堂に掲げられている河合寸翁筆による「申義堂」扁額は岸本家に保管されていました。また、文書が同家に保管されているのはそのためです。

 その後、土地は明治28年、高砂警察署建設のため兵庫県へ寄付され、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。

   申義堂が東神吉町(加古川市)に残っていた

 申義堂の建物は、解体され明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡東神吉村西井ノロに移築されていました。

 昭和7,8年ころまでは使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用され、もとどういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、申義堂の建物であったことがあらためて確認されたのは平成2年4月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて、明治12年の移築が確認されました。

 平成6年に解体されて、高砂市教育センターでんぷん保管されました。

 その続きを紹介することにしましょう。

  申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由

  西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』という冊子をいただきました。

  内容は、申義堂について、『高砂市史(第二巻)』が簡単に書いているその部分です。

      長谷川亀次郎

 明治時代、東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような立派な学校がありました。

 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。
 長谷川亀次郎氏と申義堂がかかわりを持っていました。
 ここでは、名前の紹介だけにしておきます。

 亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。
 とりあえず、この二冊を中心に、申義堂のその後を説明しましょう。(no4530)

 *挿絵:冊子『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』(柴田育克著)

 ◇きのう(7/26)の散歩(10.327歩)

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