江戸時代の初期は、大開発の時代
姫路藩は、全国的にみても生産性の高い地域でした。
江戸時代のはじめは新田開発がずいぶん行われ、耕地は広がりました。
江戸時代初期は、大開発の時代で、日本の農村の原風景がつくられたのはこの時代です。
とりわけ、印南郡・加古郡の平野部(台地部)では加古新田(現:加古郡稲美町)をはじめ大規模な開発がおこなわれました。
また、明暦4年(1658)の益田堤の築堤により、加古川の西岸部に新田開発が拡大しました。
江戸時代中期の新田開発は停滞
江戸時代初期には、これら新田の開発により、米の増産がありましたが、中期以降これら新田の開発は停滞します。
あまりにも急激な、新田開発のために水不足の問題がおこりました。
つまり、急激な開発が続けば、水不足で共倒れがおこりました。
そのため姫路藩でも、中期以降は新田開発も積極的に行われていません。
しかし、江戸時代の中期以降は、(1)貨幣経済の発展と米価の変動による支出の増加、(2)農民階層の分化、(3)凶作・飢饉などにより、各藩とも財政政策は深刻になりました。姫路藩も例外ではありません。
そのような状況の中で、しばしば、大規模な洪水・飢饉が当地方を襲いました。
享保7年(1732)の飢饉では、姫路藩では1700人もの飢人がでましたが、高砂は特に多く600人もの飢人を出しています。
高砂で、特に多くの飢人が多かったのは農業から離れ、日雇い・沖仲仕等半プロ層が多かったためと考えられます。
文化の大改革
これらの藩の財政の窮乏を立て直すために行われたのが、文化の大改革です。
この藩改革で、家老の河合道臣(後の寸翁)は、新たな殖産興業にとりくみました。
その中でも、最も力を注いだのは木綿の生産と藻綿(綿製品)の専売制度の実施でした。(no4517)
*「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照
◇きのう(7/12)の散歩(10.872歩)
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