姫路藩の木綿
姫路藩では、正徳二年(1712)に木綿仲買株が設定されており、元文元年(1736)大坂に入荷した木綿の生産の中に「播磨」の名が見えます。
また、後に播磨藩御用商人・六人衆に一人となる高砂の岸本家の祖は印南郡大国(現:加古川市西神吉町大国)で酒造業と木綿販売を家業としていましたが、享保年間(1716~36)に分家して高砂に進出し、木綿販売を続けました。
ですから、正徳・享保年間のころに、すでに高砂でも木綿流通がみられていたようです。
新しい経済政策・江戸へ綿布を直送する
しかし、木綿の作付や木綿の流通が急増するのは19世紀以後のことです。
つまり、河合道臣(後の寸翁)が木綿を専売制に着手した時期と重なります。
播磨の木綿産地の中心地は加古・印南郡でした。
そのため、高砂に周辺地域から相当数の木綿(綿布)が集荷されたようです。
高砂は、近世初期以来、米の移出港として京坂地域殿結びつきが強かった関係もあって、播州木綿は高砂から、もっぱら大坂へ出荷されていました。
播州木綿は、藩専売により江戸積が実施される以前は総て大坂積とされ、その販売も大坂商人の手に委ねられていたため、領内商人は極めて不利な木綿商いを強いられていました。
藩は、大坂商人から多額の借金があり、大坂商人や大坂商人と結びついた藩の役人・商人を無視して自由に江戸への移出ができなかったのです。
しかし、姫路藩は余りにも多額の借金を抱えていました。背に腹は代えられません。
このままでは姫路藩の経済は、破たんしてしまいます。
何としても、新しい経済立て直しの策が求められました。
しかし、江戸と直接取引をするとなると、大きな抵抗がありました。
大坂商人やそれに繋がる人々の反対です。
それを押し切って、河合道臣(寸翁)は藩政改革の一環として直接江戸へ木綿を移出する木綿専売に着手しました。
道臣の経済政策を支えた一人が高砂の岸本家でした。
岸本家については、後にも取り上げることにします。(no4519)
*「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照
*写真:河合道臣(寸翁)像:姫路神社境内
◇きのう(7/14)の散歩(12.058歩)
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