「近世の加印地域を歩く」といいながら、今日も中世の高砂の話です。
*註:「加印地域」とは、旧加古郡・印南郡の地域のことで、現在の加古川市・高砂市播磨町・稲美町の範囲を指します。
最近では、「加印」の用語は、あまり使われなくなりました。歴史用語になりつつあるようです。
中世の高砂
近世以前の高砂のようすから始めます。
最初に、地名としての「高砂」にみることができます。
『経国集』は、9世紀の初頭の作品です。
その後、よく知られるものとしては、『源平盛衰記』・『法然上人絵伝』などに紹介されています。
しかし、鎌倉・室町時代の高砂は、漁村的性格が強い集落であったようです。
そして、高砂は、江井崎、福泊、飾磨、室津とともに播磨5泊の一つに数えられ、瀬戸内海の屈指の船泊となり、港としての役割は高まっていきました。
中世の高砂は現在の尾上町(現:加古川市)
しかし、その「高砂」は現在の高砂ではありません。
加古川は、まさに暴れ川で、近世(江戸時代)初期、池田輝政改修前は、加古川の流路は、しばしば変動し、阿閇村(あえ:現在の播磨町)から、西は曽根村(現在の高砂市)の間を変動しました。
したがって、その高砂の河口の高砂泊も流路の変動に伴って移動しました。
中世の高砂泊は、今日の高砂ではなく、現在の加古川左岸の今津(いまづ:現加古川市尾上町)のあたりでした。
そのことは『播磨名所巡覧図絵』の「・・・今州(津)の裏口にて・・・」の記述や、天理大学所蔵の『慶長播磨図絵』からも確かめることができます。(no4507)
*絵:「法然上人絵伝(高砂浦)」より
◇きのう(7/1)の散歩(11.641歩)
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