町人の自治(高砂町)
高砂の商業活動はずいぶん盛んでした。その運営について少し説明しておきましょう。
高砂に常駐する武士は川口御番所の7人、津留穀留御番所の2人、百間蔵の守衛2人とその他わずか27人に過ぎませんでした。
高砂は、町人の町でした。
それでは、高砂はどのような仕組で運営されていたのでしょうか。
高砂町方の人口の大部分を占める商工業者や廻船業者、海業従事者が居住する町屋敷分は年貢免除地でした。
高砂町方は、28町に町屋が建ち並ぶ市街地であり、約8.000人の人々が様々な経済活動を行っていた都市でした。
この都市の行政は町人の自治によって運営されていました。
大 年 寄(大蔵元)
高砂町方の町人自治による都市行政の組織が史料的に明確になるのは宝暦5年(1755)のことでした。
この年、高砂町は、白銀100枚の冥加金(税金)を毎年上納することになっていました。
そして、高砂町には総会所が設置され、3人の大年寄(大蔵元)が出勤して「大小の諸公務支配」を行い、その指揮下にあって28町にはそれぞれ一人ずつ「小年寄(小蔵元)」と数人の5人組頭がいて、町ごとの運営にあたっていました。
そして、これら自治機関が法制的に確立し、公認の役所としての総会所が設置されたのは宝暦5年(1755)でした。総会所は南本町に設置され、のち細工町に移転しています。
また、大年寄は無給でしたが、文久3年(1863)になって姫賂藩から1人ずつに3人扶持が支給されることになりました。
それは、大年寄の役職が藩の公的な組織として位置付けられたことを意味しています。
文化6年(1809)から同10年と天保2年(1831)から明冶4年(1871)までの大年寄の在職者は『高砂市史(第二巻)』、p143にあります。
また、大年寄3人と各町ごとに一人いる小年寄の中間に「構年寄」という役職者が8人いて、大年寄とともに高砂町政を担当しています。
おそらく、高砂町の運営には、常に28人の小年寄が担当するより3~4町を代表する構年寄8人と大年寄3人で運営する方が効率的であったのでしょう。(no4525)
*『高砂市史(第二巻)』参照
*写真:大年寄であった岸本家の茶室の庭
◇きのう(7/20)の散歩(12.676歩)
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