飾磨・城下の木綿問屋は江戸積、高砂は大坂積
長束木綿の大坂積の統制が強まったのは、天保7年(1836)のことで、木綿問屋・仲買を強力に専売制下に組みいれたためです。
その結果、姫路木綿の生産地である加古・印南両郡の長束木綿問屋は30数軒に制限され、大坂積も大幅に制限され、大部分は飾磨津の江戸積仲間の手で江戸に送られました。
弘化4年(1847)の長束江戸積仕法の改定により、大坂積はさらに制限は強められ、別府・寺家町(現:加古川市)、それに高砂に限定されました。
木綿販売:高砂の木綿問屋は完敗
この弘化4年の改定により、大坂積の数量は激減することになります。
嘉永2年(1849)の長束木綿総取扱高は76万反ですが、そのうち、江戸積は60万反、大坂積は、約16万反に過ぎませんでした。
これは、専売制を利用した姫路城下、飾磨の江戸積仲間と競合で、高砂の大坂積問屋は完敗となりました
高砂の岸本吉兵衛も大坂積をみかぎり、江戸積仲間に加わりました。
長束木綿問屋は姫路・飾磨の江戸積仲間の支配下に組み入れられたため、高砂問屋は、木綿の生産地が地元の加古川・高砂地方に関わらず集荷が困難になりました。
その後、江戸積木綿は江戸市場の需要の限界と根強い大坂商人の巻き返しがありましたが、かつての繁栄は回復できませんでした。(no4522)
*「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照
*絵図:姫路市天飾磨区天神の古い街並み
◇きのう(7/17)の散歩(11.030歩)
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