ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(223) 近世の加印地域 高砂篇(2)・今津村の人々、高砂へ移住

2018-07-04 08:15:13 | お爺さんが語る郷土の歴史

       高砂城、慶長17年の頃に造られた?

 高砂が近世の都市として成立したのは、姫路藩主となった池田輝政の高砂築城にはじまりました。(*戦国時代の高砂城は、荒井町小松原と思われる)

 『池田家履歴略記』には、慶長十七年(1612)の項に「造高砂城」という見出しがあります。

 この史料は、1799年の序文をもつ後世の編纂物ですので信頼性にやや不安はありますが、高砂城は慶長17年に高砂城が造られたと思われます。

 おそらく、慶長六年から十四年にかけての大規摸な姫略築城が一段落したのち、高砂築城に着手したのでしょう。

 『慶長播磨国絵図』(天理大学図書館蔵)に城と高秒町が描かれています。

 ただし、その規模は不明で、はっきりとしていません。

    今津村の人々、高砂へ移住

 中世の頃、先に説明したように今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。

 中世に栄えたか、今津村(現:加古川市尾上町)は、江戸時代に初めの頃には、土砂の堆積により、すっかり、その機能を失なってしまいました。

 そのため、姫路藩主は、新たに今津の人を中心にして、右岸(西岸)の高砂に移動させ、新しい城下町づくりを計画しました。

 結果、尾上町(現:加古川市)の今津村は慶長・元和の頃に消滅しましたが、代わって、高砂に新しい「今津町」が誕生したのです。(no 4508)

 *絵図:慶長播磨国絵図(天理大学図書館蔵)、解読図

 きのう(7/3)の散歩(11.108歩)

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