申義堂(しんぎどう)(1)
高砂の町は商業の町でした。
商(あきない)には、社会情勢(情報)を集め、判断し、記録が必要です。
文字が必要です。数字に明るくなければなりません。
そのため、高砂には学問の雰囲気がありました。
高砂の学問所、申義堂(しんぎどう)の話です。
「申義堂」の設立は文化年間(1804~1817)
申義堂は、江戸時代に高砂地域に設立された唯一の公的性格をもった教育施設でした。
ところが、その成立については、史料が失われ明治以降に記されたいろいろな文献に述べられている所からうかがうしかありません。
申義堂と関わり深かった高砂の岸本家の文書調査をもとに研究された木村重圭氏の研究『姫路藩郷学申義堂と岸本家』によって、大体の姿を知ることができます。
申義堂の成立は次のようです。
申義堂は、文化年間(1804~18)高砂北本町に、姫路藩家老・河合寸翁の意見によって設立された町民子弟を対象とする教育施設で、藩からは維持運営費として25俵(10石)が支給せられていました。
申義堂が文化年間の開設という点については、大方が一致しています。
申義堂は、藩と高砂町の共同経営
申義堂は、どのような性格をもった教育施設だったのでしょう。
いままでは、姫路藩の教育施設としていました。
たしかに藩が一定の出資を行い、申義堂の維持運営費として25俵を給していす。
しかし、『兵庫県教育史』は、「(申義堂の)費用は藩費私費相半す」と書いています。
素朴に考えても藩からの25俵という額だけで、申義堂の運営と教授への俸給が賄えたのかと無理です。
また、ある書に「(申義堂は)郷学なり」とあり、また藩主の視察の宛名が「大年寄(大蔵元)」であることなどは、そのことを検討する手がかりとなります。
「郷学」といういい方は、領主が藩士のための藩校以外に、領内の庶民子弟の教育のために開設したものという意味で使われています。
申義堂は、たんに領主側の意向によってできたのではなく、地域庶民の教育への志向があってはじめて実現されました。
高砂には、学問文化を志向する動きが一定の蓄積がありました。
寺子屋とは異なったより高度な学問所を望む動きがあり、それを受けて河合寸翁(姫路藩の家老)の建議が出されたとみるのが自然のようです。
また、藩主の高砂神社・申義堂の視察の宛名が「大年寄蔵(大蔵元)」になっていることは、申義堂の管理運営責任主体が大年寄であったことを示しています。
申義堂の運営は、町が中心となり、藩の共同運営というのが実状に近かったようです。
申義堂は、藩と町の共同経営といいながら、その教育や運営・内容に対して藩の直接的な干渉はなかったようです。(no4527)
*写真:再建された申義堂(十輪寺山門前より東へ50メートル)
◇きのう(7/22)の散歩(10.330歩)
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