ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(246) 近世の加印地域 高砂篇(25)、申義堂(5)・長谷川亀次郎ってwho?

2018-07-27 08:14:41 | お爺さんが語る郷土の歴史

         長谷川亀次郎ってwho?

 申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。
 ここに、長谷川亀次郎が登場します。
 長谷川亀次郎が突然登場しますので、「長谷川家亀次郎って誰?」と疑問を持たれると思います。

 亀次郎について少し紹介しておきましょう。  

    <長谷川亀次郎、年表>
 天保9年(1838)  西井ノ口村に生まれる。
   ?年        高砂へ進出。 
 安永6年(1859)   名字帯刀を許される。
 文政元年(1861)   大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
   <江戸幕府崩壊>
 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く納める。 
 明治3年(1870)  軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
             蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。  
 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。
             姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。
 明治6年(1873)  高砂・飾磨・船場の姫路藩蔵の御蔵米取り扱い方に任ぜられる。             
             印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
 明治12年(1879)  申義堂を西井ノ口に移築

  明治22年(1889)  死亡、戒名は釈浄脩
  以下省略。

  亀次郎については、史料がすくなく、はっきとしませんが、晩年は仏教に帰依しました。
 彼は、特に教育の分野で大きな足跡を残しています。
 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
 ・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
 ・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
 ・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
 ・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
 ・「長谷川亀次郎を偲ぶ」によれば、亀次郎の妻(うの)は、岸本家から嫁いでいます。
 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にあったようです。
 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下の会話は記録によるものではありません。皆さんはどう思われますか。
    
ある日の会話
 「亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
 「岸本さんのいわれることです。出来ることでしたらなんなりと・・・」
 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
   (こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
 「岸本はん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
 出しょうの(西)井ノ口村に移してもらえませんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
 「そこ(井の口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
 話はトントン調子に進み、高砂町の説教所(申義堂)は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。(no4531)
 *写真:長谷川亀次郎

 ◇きのう(7/26)の散歩(10.746歩)

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