長谷川亀次郎ってwho?
申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。
ここに、長谷川亀次郎が登場します。
長谷川亀次郎が突然登場しますので、「長谷川家亀次郎って誰?」と疑問を持たれると思います。
亀次郎について少し紹介しておきましょう。
<長谷川亀次郎、年表>
天保9年(1838) 西井ノ口村に生まれる。
?年 高砂へ進出。
安永6年(1859) 名字帯刀を許される。
文政元年(1861) 大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
<江戸幕府崩壊>
明治2年(1869) 調達金・木綿代金を多く納める。
明治3年(1870) 軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。
明治5年(1872) 高砂南本町に物産会社をつくる。
姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。
明治6年(1873) 高砂・飾磨・船場の姫路藩蔵の御蔵米取り扱い方に任ぜられる。
印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
明治12年(1879) 申義堂を西井ノ口に移築
明治22年(1889) 死亡、戒名は釈浄脩
以下省略。
亀次郎については、史料がすくなく、はっきとしませんが、晩年は仏教に帰依しました。
彼は、特に教育の分野で大きな足跡を残しています。
岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
・「長谷川亀次郎を偲ぶ」によれば、亀次郎の妻(うの)は、岸本家から嫁いでいます。
とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にあったようです。
このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下の会話は記録によるものではありません。皆さんはどう思われますか。
ある日の会話
「亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
「岸本さんのいわれることです。出来ることでしたらなんなりと・・・」
「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
(こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
「岸本はん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
出しょうの(西)井ノ口村に移してもらえませんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
「そこ(井の口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
話はトントン調子に進み、高砂町の説教所(申義堂)は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。(no4531)
*写真:長谷川亀次郎
◇きのう(7/26)の散歩(10.746歩)