木綿を藩の専売品に
江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。
家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。
道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。
しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。
そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。
江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。
しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつも、なかなか道臣の案に協力しませんでした。と、いうよりも協力できなかったのです。
*小説ですが、河合寸翁の経済政策について、『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(文庫『河合道臣』PHP文庫)をお読みください。
江戸への綿布の販路に成功
しかし、それを押して姫路藩は、江戸への綿(布)の販売をはじめました。
大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。
姫路藩への新たな借財への金利があがりました。
道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。
やがて、大坂商人に対する不満が出るようになり、風は姫路藩に味方をするようになりました。
11代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、55人の子どもをもうけましたが、43三人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がなったのです。
姫路藩は、徳川家と親戚になりました。
そのためか、姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進み、姫路藩の綿布の専売制度は軌道に乗り、姫路藩の借財は、みるみる間に解消されました。(no4518)
*『河合道臣(寺林峻)』(PHP文庫)参照(写真:『河合道臣』の表紙)
◇きのう(7/13)の散歩(11.829歩)
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