ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(224) 近世の加印地域 高砂篇(3)・ 城下町から港(商業)町へ

2018-07-05 08:22:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

     高砂は、城下町として出発したが!

 姫路藩主・池田輝政の時代に、現在の加古川の河口に高砂城が造られました。

 城下町は、現在の高砂神社を中心とする高砂町(たかさごまち)でした。

 もう少し、図の説明をしておきます。

 図は、近世の高砂の町場の図です。

 図は『近世の高砂(山本哲也著)』をお借りしています。

 高砂が城下町の時代、堀川で囲まれた現在の高砂町が城下町で、城下町の周囲の赤く塗りつぶした所が当時の町場でした。

     城下町から港(商業)町へ

 高砂の町は、姫路に次ぐ城下町として発展する予定でした。

 が、一大事件がおきました。

 それは、元和元年(1615)、武家諸法度の「一国一城令」です。

 つまり、幕府から「一つの藩には一つの城しか認められない」という法令が出されたのです。

 この幕府の法令により、完成間もなく高砂城は取り壊されることになりました。

 以後、姫路藩主・本多忠政は高砂を港町・商人町として道を歩み始めました。

 次号では、高砂城下町から町場に変わった、この間の事情をもう少し説明することにします。(no4509)

 *図:赤く塗られた所が池田輝政時代の町場、元図は『近世の高砂(山本哲也著)』より

 ◇きのう(7/4)の散歩(11.712歩)

   〈お願い〉

  「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

   時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする