木綿の江戸積み激増
大坂へ出荷されていた木綿が大量に江戸へ送られるようになったのは、天保7年(1836)3月の長束木綿江戸積仕法(しほう:決まり)の成立がきっかけでした。
長束木綿の江戸積について天保7年まで明確な仕法も会所(役所)もありませんでした。
江戸積仕法によって、木綿の江戸積が奨励されたのですが、それは江戸積の奨励にすぎませんでした。
この仕法の改定(天保7年8月)を境にして、江戸積木綿が激増し、天保11年10月から弘化4年(1847)までの6年間に加古郡・印南郡産出の物だけで、428万反強が江戸に出荷されました。
文化7年以降、多くの姫路木綿の出荷先が、大坂から江戸へと変わったのです。
木綿価格が大坂積に比べて引き上げられ、年々6万両もの売り上げがありました。
他領の商人も大坂積を敬遠し、江戸積に転向するようになりました。
続いた大坂積
木綿の大坂積が禁止されていたわけではありません。
特に、高砂から、たくさんの木綿が大坂へ出荷されています。
高砂と別府(現:加古川市別府町)に大坂積の「荷物受取問屋(津出蔵元)」が存在していました。
万延2年(1861)の頃の、高砂の「津出蔵元」は高砂の大蔵元・米屋清兵衛でした。
しかし、これら問屋は、大坂への積出を自由にできたわけではありせん。
御国産木綿会所の下請けである長束木綿問屋は、加古・印南の長束木綿をとりしまりました。
津出蔵元は、「長束木綿会所」の支配を受けていました。(no4521)
*「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照
*挿絵:江戸積み(菱垣廻船で)
◇きのう(7/16)の散歩(11.234歩)
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