ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(247) 近世の加印地域 高砂篇(26)、申義堂(6)・申義堂、高砂へ帰る

2018-07-28 06:46:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

          岸本家・姫路藩の御用商人も務める

 申義堂のスポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 高砂の岸本家は、その地の利を活かして大いに発展しました。

 岸本家は、三代でその基礎が確立し、資産は持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をしました。
 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。 

     申義堂、高砂へ帰る
 先に紹介したように、申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。

 天井に棟札があり、明治12年の移築が確認されました。

  その後、平成5年に高砂市にひきわたされ、平成6年に解体され、しばらく高砂市教育センターに保存されていましたが、平成23年、高砂市横町に江戸時代当初の姿に復元されました。(no4532)

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』・『長谷川亀次郎を偲ぶ』(長谷川史子)・ 『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)』(ジュンク堂書店)参照
 *高砂地図(岸本家・長谷川家・元の申義堂・現在の申義堂の場所を確認ください)

 ◇きのう(7/27)の散歩(11.921歩)

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