ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(229) 近世の加印地域 高砂篇(8)・高砂の塩・塩物

2018-07-10 10:54:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    高砂の塩・塩物

 江戸時代の高砂は、加古川河口の商品の集散地として栄えました。

 前号でも紹介したように、高砂は、もともとは、蔵米(年貢米)の積み出し地として建設された港町であったため、取扱品の中心は年貢米でした。

 これら年貢米は、高砂の大蔵元を通じて売りさばかれました。

 ところで、米に次ぐ高砂港の主要作物は、何だったと想像されますか。

 ある時期まで、なんと塩(物)でした。

 『高砂雑誌』によると、「・・・赤穂の人・赤穂屋徳兵衛は塩業に精通しており、領主・池田輝政の命によって高砂に来て塩の問屋をいとなみ、江戸時代初期の頃、荒井・小松原の一帯はほとんど塩田になり、販路を京阪の地に求めて、荒井塩の名は名声を高めた・・・」と記しています。

 やがて、高砂における塩業は、加古川の舟運と共に加古川の奥地にまで広がっていきました。

 元文年間(1761~73)に高砂に塩座が置かれてからは、ますます塩業は盛んになりました。

 『赤穂塩業史』によると、輝政は慶長5年から同9年までの間に播州・荒井塩を開発した・・・」と書いています。

    荒井の塩業技術、赤穂塩の改良に

 その後、「六右衛門という人物が荒井で塩業を開き、その後赤穂・撫養(徳島県)に塩業を伝えた」と『印南郡史』は、記しています。

 これを裏書きするように、『赤穂塩業史』にも、荒井(高砂)の技術が赤穂に伝えられた・・・」と書いています。(no4514)

 *写真:流下式田(竹をホウキのような枝に組み、汲み上げた海水を流し、水分を飛ばし、塩分濃度をあげる方式)

 ◇きのう(7/9)の散歩(10.453歩)

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