政治都市から経済(商業)都市へ
江戸時代に繁栄した29ヵ町からなる高砂の町並みは、元和三年(1617)に姫路藩主となった本多忠政によってつくられたものです。
元和の「一国一城令」に従って、高砂城が破却されたあと、その跡地には築城以前に、そこあった高砂神社が元の場所に戻され、神社の周辺に新たに町割りがなされて町人たちに屋敷地として与えられました。
家を建てない場合は没収
その時の「定書」の写し(写真)が『加藤家文書』に残されています。
これには①高砂の町人を優先し、他所の者へはそのあと にすること、同じ屋敷地で競合した場合はくじ引きにすること。
②屋敷地を与えられても家を建てない場合は没収して別の者に与えること。
③屋敷の分議にあたっては高砂年寄(有力者)であっても「えこひいき」があれば直訴することなどが定められています。
ここで注目したいのは②の内容で、領主は都市建設にあたって、町人が家を建て商工業を活発に行うことを期待していたことが判ります。
このような法令は、同時期の他の都市でもみられます。
その場合、たいていは無償で屋敷地が分議されており、地代収取よりも経済機能の充実に目的がありました。
高砂では有償であったのか、また毎年の地子銭(税金)が徴収されたのか、現在のところ不明ですが、すくなくとも本多忠攻による高秒城の破却と町割り整備によって、高砂が軍事都市から平和的な経済都市に生まれ変わったと言えます。(no4510)
*「たかさご史話(29)」(今井修平論文)より
*写真の文書:「高砂屋敷割定目之事」(『加藤家文書』)
◇きのう(7/5)の散歩(10.699歩)
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