ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(235) 近世の加印地域 高砂篇(14)・木綿の江戸積のはじまり

2018-07-16 08:08:38 | お爺さんが語る郷土の歴史

          木綿の江戸積のはじまり

  藩の専売制度は、文化7年(1810)にはじまりましたが、木綿が江戸に送られたのは文政3年(1820)で、専売制実施の10年後のことでした。

  翌年の文化4年、城下の綿町に専売品取扱機関として御国産木綿会所(おんこくさんもめんかいしょ)が設けられました。

  御国産木綿会所は、高砂の岸本吉兵衛などの6人衆や姫路城下の有力商人などによって運営されていました。

 この御国産会所の下に姫路藩江戸積仲間が置かれましたが、それに参加したのはほとんど城下・飾磨の商人で、高砂商人の参加はみられません。

     長束木綿の大坂積

 姫路木綿は、加古・印南郡で生産される木綿で、長束木綿(ながそくもめん)といいました。

 その実数は、天保7年(1836)の調査によると、姫路領内で長束木綿が150万反あまりで、近隣藩からの買い入れ分を加えると、約200万反にも達しました。

 長束木綿は、長束木綿仲買があつめ、加古・印南に散在する木綿問屋に納め、長束木綿問屋へ出していました。

 当時、城下の木綿問屋が江戸に積み出した木綿・200万反うち30万反程度で残りの85%は長束木綿問屋が大坂や他領へ販売していました。

 専売制度実施当時、大坂積木綿は圧倒的な割合でした。

 この長束木綿を江戸積みの統制下に置くために、国産会所の下部機関として長束木綿会所が設置されたのです。

 天保7年のことでした。(no4520)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *写真:御国産木綿会所(姫路市綿町・戦災で焼失)

 きのう(7/15)の散歩(10.610歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(234) 近世の加印地域 高砂篇(13)・姫路藩の木綿

2018-07-15 08:30:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

     姫路藩の木綿

 姫路藩では、正徳二年(1712)に木綿仲買株が設定されており、元文元年(1736)大坂に入荷した木綿の生産の中に「播磨」の名が見えます。

 また、後に播磨藩御用商人・六人衆に一人となる高砂の岸本家の祖は印南郡大国(現:加古川市西神吉町大国)で酒造業と木綿販売を家業としていましたが、享保年間(1716~36)に分家して高砂に進出し、木綿販売を続けました。

 ですから、正徳・享保年間のころに、すでに高砂でも木綿流通がみられていたようです。

    新しい経済政策・江戸へ綿布を直送する

 しかし、木綿の作付や木綿の流通が急増するのは19世紀以後のことです。

 つまり、河合道臣(後の寸翁)が木綿を専売制に着手した時期と重なります。

 播磨の木綿産地の中心地は加古・印南郡でした。

 そのため、高砂に周辺地域から相当数の木綿(綿布)が集荷されたようです。

 高砂は、近世初期以来、米の移出港として京坂地域殿結びつきが強かった関係もあって、播州木綿は高砂から、もっぱら大坂へ出荷されていました。

 播州木綿は、藩専売により江戸積が実施される以前は総て大坂積とされ、その販売も大坂商人の手に委ねられていたため、領内商人は極めて不利な木綿商いを強いられていました。

 藩は、大坂商人から多額の借金があり、大坂商人や大坂商人と結びついた藩の役人・商人を無視して自由に江戸への移出ができなかったのです。

 しかし、姫路藩は余りにも多額の借金を抱えていました。背に腹は代えられません。

 このままでは姫路藩の経済は、破たんしてしまいます。

 何としても、新しい経済立て直しの策が求められました。

 しかし、江戸と直接取引をするとなると、大きな抵抗がありました。

 大坂商人やそれに繋がる人々の反対です。

 それを押し切って、河合道臣(寸翁)は藩政改革の一環として直接江戸へ木綿を移出する木綿専売に着手しました。

 道臣の経済政策を支えた一人が高砂の岸本家でした。

 岸本家については、後にも取り上げることにします。(no4519)

  *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

  *写真:河合道臣(寸翁)像:姫路神社境内

  きのう(7/14)の散歩(12.058歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(233) 近世の加印地域、高砂篇(12)・木綿を藩の専売品に

2018-07-14 08:12:22 | お爺さんが語る郷土の歴史

    木綿を藩の専売品に

 江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。

 家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。

 道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。

 しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。

そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。

 江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。

 しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつも、なかなか道臣の案に協力しませんでした。と、いうよりも協力できなかったのです。

 *小説ですが、河合寸翁の経済政策について、『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(文庫『河合道臣』PHP文庫)をお読みください。

    江戸への綿布の販路に成功

 しかし、それを押して姫路藩は、江戸への綿(布)の販売をはじめました。

 大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。

 姫路藩への新たな借財への金利があがりました。

 道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。

 やがて、大坂商人に対する不満が出るようになり、風は姫路藩に味方をするようになりました。

 11代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、55人の子どもをもうけましたが、43三人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がなったのです。

 姫路藩は、徳川家と親戚になりました。

 そのためか、姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進み、姫路藩の綿布の専売制度は軌道に乗り、姫路藩の借財は、みるみる間に解消されました。(no4518)

 *『河合道臣(寺林峻)』(PHP文庫)参照(写真:『河合道臣』の表紙)

 ◇きのう(7/13)の散歩(11.829歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(232) 近世の加印地域 高砂篇(11)、高砂の綿作(2)・文化の大改革

2018-07-13 06:57:16 | お爺さんが語る郷土の歴史

      江戸時代の初期は、大開発の時代

 姫路藩は、全国的にみても生産性の高い地域でした。

 江戸時代のはじめは新田開発がずいぶん行われ、耕地は広がりました。

 江戸時代初期は、大開発の時代で、日本の農村の原風景がつくられたのはこの時代です。

 とりわけ、印南郡・加古郡の平野部(台地部)では加古新田(現:加古郡稲美町)をはじめ大規模な開発がおこなわれました。

 また、明暦4年(1658)の益田堤の築堤により、加古川の西岸部に新田開発が拡大しました。

     江戸時代中期の新田開発は停滞

 江戸時代初期には、これら新田の開発により、米の増産がありましたが、中期以降これら新田の開発は停滞します。

 あまりにも急激な、新田開発のために水不足の問題がおこりました。

 つまり、急激な開発が続けば、水不足で共倒れがおこりました。

 そのため姫路藩でも、中期以降は新田開発も積極的に行われていません。

 しかし、江戸時代の中期以降は、(1)貨幣経済の発展と米価の変動による支出の増加、(2)農民階層の分化、(3)凶作・飢饉などにより、各藩とも財政政策は深刻になりました。姫路藩も例外ではありません。

 そのような状況の中で、しばしば、大規模な洪水・飢饉が当地方を襲いました。

 享保7年(1732)の飢饉では、姫路藩では1700人もの飢人がでましたが、高砂は特に多く600人もの飢人を出しています。

 高砂で、特に多くの飢人が多かったのは農業から離れ、日雇い・沖仲仕等半プロ層が多かったためと考えられます。

     文化の大改革

 これらの藩の財政の窮乏を立て直すために行われたのが、文化の大改革です。

 この藩改革で、家老の河合道臣(後の寸翁)は、新たな殖産興業にとりくみました。

 その中でも、最も力を注いだのは木綿の生産と藻綿(綿製品)の専売制度の実施でした。(no4517)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 ◇きのう(7/12)の散歩(10.872歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(231) 近世の加印地域 高砂篇(10)・高砂の綿作(1)

2018-07-12 09:34:10 | お爺さんが語る郷土の歴史

    高砂の綿作

 高砂地方の木綿の話をしましょう。

 木綿も米・塩と並んで高砂の重要な積み出し商品でした。

 綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河(愛知県)に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅しました。

 その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になりました。

 木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。

 江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。

 姫路木綿は、品質がよく、市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していました。

 姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得ました。

 この姫路木綿の原料は、高砂・加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。

 *「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことです。(no4516)

 *挿絵:木綿

 *きのう(7/11)の散歩(12.877歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(230) 近世の加印地域 高砂篇(9)・高砂塩の盛衰

2018-07-11 07:56:34 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

        高砂塩の盛衰

 荒井の塩業は、ずいぶん盛んであったのですが、18世紀の前半より急速に衰えていきました。

 原因として、次のような理由が考えられます。

 もっと大きな原因としては、加古川の水流と堆積作用により、塩の付き具合が悪くなり、塩の生産効率が低下したためです。

 そのため、塩田経営の中心地は、しだいに加古川の影響の少ない曽根・大塩・的形に移っていきました。

 そして、荒井の塩田は、宝永年間(1704~11)までに大半が田畑になっていきました。

 高砂から、多くの塩浜が消えていったのですが、衰えたとはいえ18世紀後半においてもわずかであるが続いていました。

  曽根町では、わずかですが昭和20年代まで残っていました。

    塩田(荒井村)の発達した理由

 荒井村で、比較的に早く塩田が開発されたのは高砂の浜が遠浅で地理的な条件が良かったともさることながら、荒井村で開発された入浜式塩田の構築技術にありました。

 ①   塩田の堤の用材として、竜山石の入手が容易であったこと。

 ②   姫路城の築城の技術活用されたこと。

 ③  加古川流域含め、塩の市場が拡大したこと。

 以上がその主な理由です。

 それでは、消えた多くの塩田の跡はどうなっていったのでしょう。

 これは、後に詳しく述べますが、姫路藩の経済方針と関わってきます。

 その多くは、綿作地に変わっていきました。(no4515)

 *写真:曽根の塩浜(昭和2年ごろ撮影・『高砂市史・第二巻』より)

  ◇きのう(7/10)の散歩(10.980歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(229) 近世の加印地域 高砂篇(8)・高砂の塩・塩物

2018-07-10 10:54:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    高砂の塩・塩物

 江戸時代の高砂は、加古川河口の商品の集散地として栄えました。

 前号でも紹介したように、高砂は、もともとは、蔵米(年貢米)の積み出し地として建設された港町であったため、取扱品の中心は年貢米でした。

 これら年貢米は、高砂の大蔵元を通じて売りさばかれました。

 ところで、米に次ぐ高砂港の主要作物は、何だったと想像されますか。

 ある時期まで、なんと塩(物)でした。

 『高砂雑誌』によると、「・・・赤穂の人・赤穂屋徳兵衛は塩業に精通しており、領主・池田輝政の命によって高砂に来て塩の問屋をいとなみ、江戸時代初期の頃、荒井・小松原の一帯はほとんど塩田になり、販路を京阪の地に求めて、荒井塩の名は名声を高めた・・・」と記しています。

 やがて、高砂における塩業は、加古川の舟運と共に加古川の奥地にまで広がっていきました。

 元文年間(1761~73)に高砂に塩座が置かれてからは、ますます塩業は盛んになりました。

 『赤穂塩業史』によると、輝政は慶長5年から同9年までの間に播州・荒井塩を開発した・・・」と書いています。

    荒井の塩業技術、赤穂塩の改良に

 その後、「六右衛門という人物が荒井で塩業を開き、その後赤穂・撫養(徳島県)に塩業を伝えた」と『印南郡史』は、記しています。

 これを裏書きするように、『赤穂塩業史』にも、荒井(高砂)の技術が赤穂に伝えられた・・・」と書いています。(no4514)

 *写真:流下式田(竹をホウキのような枝に組み、汲み上げた海水を流し、水分を飛ばし、塩分濃度をあげる方式)

 ◇きのう(7/9)の散歩(10.453歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(228) 近世の加印地域 高砂篇(7)・高砂は、年貢米の集散地

2018-07-09 08:17:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

     高砂は、年貢米の集散地からスタート

 近世の高砂は、加古川河口の商品集散地として繁栄してきた港町でした。

 もともと、蔵所・蔵米津出地として建設された港町で、取り扱い品の中心は年貢米でした。

 加古川流域には流域藩領の他に、多くの大名領・旗本領が入り組んでおり、その数は20余家にもなっていました。

 元治元年(1864)のある記録によると、高砂に集まった姫路藩米・他藩の大名米・旗本米の合計は65万5000石で、うち8割強が姫路藩領の年貢米によって占められていました。

これらの多くの年貢米が高砂に集荷され、大蔵元によって売りさばかれたのです。

   年貢米の多くは高砂で売りさばかれる

 「姫路米の行き先は、これまで大坂で売りさばかれた」とするのが大方の説でした。

 ところが、文化十二年(1815)十月の「高砂南卸蔵出米控帳」によると、大坂廻米のほかに半分近くが地元高砂で売りさばかれているのです。

 販売を請け負った商人は、網屋太右衛門・塩屋次右衛門・三草屋勘左衛門というように、いずれも高砂の米仲買商で、とくに網屋・塩屋はのちの高砂町の大蔵元でした。

 また、小西新右衛門は伊丹の酒造家で、大名貸を兼ねた豪商です。

 この年姫路藩は、小西に4万3干両の負催があったので、この米はその返済に充てたものだったのでしょう。

 ともかく、こうして姫略米の半分近くが高砂で売りさばかれて、商人米になっていたことは注目されます。(no4513)

 *『近世の高砂(山本哲也著)』(高砂市教育委員会)、「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *挿絵:高砂米蔵(百閒蔵)の今

 ◇きのう(7/8)の散歩(10.347歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(227) 近世の加印地域 高砂篇(6)・加古川の流れと高砂の町

2018-07-08 07:00:16 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   加古川の流れと高砂の町

 高砂の町場がつくられました。

 江戸時代の高砂は、加古川の流れをぬきに語ることはできません。

 高砂の町の特徴は、加古川の広大な後背地を持っていたことです。

 高砂は、商品経済の発達にともない、高瀬舟による加古川の舟運の役割は、ますます大きくなりました。

 高瀬舟の本来の役割は、年貢米を高砂へ運ぶことであったのですが、加古川の流域で産出された、さまざまな商品が高砂に運ばれました。

 また、高砂に集まった商品は、流域の各村々に運ばれました。

    どんなものが高瀬船で運ばれたのか

 主な商品は次のようです。

 下り荷物(高砂へ運ばれたもの)

  木工品・・・・・木材、タンス、下駄、桶、樽など

  生活用品・・・・薪、炭、紙、綿など

  食料品・・・・・米、芋、茶、梨など

 上り荷物

  農具・・・・・水車、唐箕(とうみ)など

  肥料・・・・干鰯(ほしか)・油粕など

  海産物

  嗜好品・・・・・菓子、煙草、酒など

  食料品・・・・・塩、砂糖、そうめんなど

  衣料品・・・・・呉服など

  生活用品・・・・鍋釜、火打石、畳表、ろうそく、石炭、仏壇など(no4512)

 *『加古川市史(第二巻)』・『KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史-(伊賀なほゑ著)』参照

 *挿絵:高瀬舟

 きのう(7/7)の散歩(1.0186歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(226) 近世の加印地域 高砂篇(5)・高砂の町割り

2018-07-07 09:52:43 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

           高砂の町割り

 寛永3年(1626)、高砂町の町割りが完成しました。

 図は、「近世元禄の頃の高砂の町図」です。

 なお、『高砂誌』によれば、高砂の町割りを担当したのは尾上左近右衛門中須又右衛門でした。

 市街地の南部は、魚町・釣舟町・漁師町・戎町など漁業従事者の町、船頭・船持水主(かこ)・仲仕人夫等の渡海町などで構成されています。

 しかし、港町高砂の中心地は高砂川・南堀川に沿う東浜町・南浜町・材木町・今津町で、ここは、高砂町の玄関口で、船着き場・荷揚場の他、問屋の蔵が建ち並び、賑わいのある問屋街でした。

     飾磨と共に姫路藩の経済を支える

 東浜町の向いの北堀川を渡ると、南北の御津留穀留番所がありました。

 なお、北堀川に沿っての町は高瀬町です。

 これは、加古川筋に姫路藩、その他の藩の年貢の輸送に当たった高瀬船にちなむ町名と思われます。

 このように、池田氏の城下は、本多氏によって港町高砂として生まれ変わり、江戸時代を通じて、飾磨と共に姫路藩を支える港町として繁栄するようになりました。(no4511)

 ◇きのう(7/6)の散歩(10.675歩)

 *図:『高砂市史(第2巻)』参照

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お爺さんが語る郷土の歴史(225) 近世の加印地域 高砂篇(4)・政治都市から経済(商業)都市へ

2018-07-06 09:28:52 | お爺さんが語る郷土の歴史

        政治都市から経済(商業)都市へ

 江戸時代に繁栄した29ヵ町からなる高砂の町並みは、元和三年(1617)に姫路藩主となった本多忠政によってつくられたものです。

 元和の「一国一城令」に従って、高砂城が破却されたあと、その跡地には築城以前に、そこあった高砂神社が元の場所に戻され、神社の周辺に新たに町割りがなされて町人たちに屋敷地として与えられました。

        家を建てない場合は没収

 その時の「定書」の写し(写真)が『加藤家文書』に残されています。

 これには高砂の町人を優先し、他所の者へはそのあと にすること、同じ屋敷地で競合した場合はくじ引きにすること。

 屋敷地を与えられても家を建てない場合は没収して別の者に与えること。

 屋敷の分議にあたっては高砂年寄(有力者)であっても「えこひいき」があれば直訴することなどが定められています。

 ここで注目したいのはの内容で、領主は都市建設にあたって、町人が家を建て商工業を活発に行うことを期待していたことが判ります。

 このような法令は、同時期の他の都市でもみられます。

 その場合、たいていは無償で屋敷地が分議されており、地代収取よりも経済機能の充実に目的がありました。

 高砂では有償であったのか、また毎年の地子銭(税金)が徴収されたのか、現在のところ不明ですが、すくなくとも本多忠攻による高秒城の破却と町割り整備によって、高砂が軍事都市から平和的な経済都市に生まれ変わったと言えます。(no4510)

 *「たかさご史話(29)」(今井修平論文)より

 *写真の文書:「高砂屋敷割定目之事」(『加藤家文書』)

  ◇きのう(7/5)の散歩(10.699歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(224) 近世の加印地域 高砂篇(3)・ 城下町から港(商業)町へ

2018-07-05 08:22:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

     高砂は、城下町として出発したが!

 姫路藩主・池田輝政の時代に、現在の加古川の河口に高砂城が造られました。

 城下町は、現在の高砂神社を中心とする高砂町(たかさごまち)でした。

 もう少し、図の説明をしておきます。

 図は、近世の高砂の町場の図です。

 図は『近世の高砂(山本哲也著)』をお借りしています。

 高砂が城下町の時代、堀川で囲まれた現在の高砂町が城下町で、城下町の周囲の赤く塗りつぶした所が当時の町場でした。

     城下町から港(商業)町へ

 高砂の町は、姫路に次ぐ城下町として発展する予定でした。

 が、一大事件がおきました。

 それは、元和元年(1615)、武家諸法度の「一国一城令」です。

 つまり、幕府から「一つの藩には一つの城しか認められない」という法令が出されたのです。

 この幕府の法令により、完成間もなく高砂城は取り壊されることになりました。

 以後、姫路藩主・本多忠政は高砂を港町・商人町として道を歩み始めました。

 次号では、高砂城下町から町場に変わった、この間の事情をもう少し説明することにします。(no4509)

 *図:赤く塗られた所が池田輝政時代の町場、元図は『近世の高砂(山本哲也著)』より

 ◇きのう(7/4)の散歩(11.712歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(223) 近世の加印地域 高砂篇(2)・今津村の人々、高砂へ移住

2018-07-04 08:15:13 | お爺さんが語る郷土の歴史

       高砂城、慶長17年の頃に造られた?

 高砂が近世の都市として成立したのは、姫路藩主となった池田輝政の高砂築城にはじまりました。(*戦国時代の高砂城は、荒井町小松原と思われる)

 『池田家履歴略記』には、慶長十七年(1612)の項に「造高砂城」という見出しがあります。

 この史料は、1799年の序文をもつ後世の編纂物ですので信頼性にやや不安はありますが、高砂城は慶長17年に高砂城が造られたと思われます。

 おそらく、慶長六年から十四年にかけての大規摸な姫略築城が一段落したのち、高砂築城に着手したのでしょう。

 『慶長播磨国絵図』(天理大学図書館蔵)に城と高秒町が描かれています。

 ただし、その規模は不明で、はっきりとしていません。

    今津村の人々、高砂へ移住

 中世の頃、先に説明したように今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。

 中世に栄えたか、今津村(現:加古川市尾上町)は、江戸時代に初めの頃には、土砂の堆積により、すっかり、その機能を失なってしまいました。

 そのため、姫路藩主は、新たに今津の人を中心にして、右岸(西岸)の高砂に移動させ、新しい城下町づくりを計画しました。

 結果、尾上町(現:加古川市)の今津村は慶長・元和の頃に消滅しましたが、代わって、高砂に新しい「今津町」が誕生したのです。(no 4508)

 *絵図:慶長播磨国絵図(天理大学図書館蔵)、解読図

 きのう(7/3)の散歩(11.108歩)

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お爺さんが語る高度の歴史(223) 近世の加印地域 高砂篇(1)・中世の高砂は現在の尾上町(現:加古川市)

2018-07-03 06:14:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

 「近世の加印地域を歩く」といいながら、今日も中世の高砂の話です。

 *註:「加印地域」とは、旧加古郡・印南郡の地域のことで、現在の加古川市・高砂市播磨町・稲美町の範囲を指します。

 最近では、「加印」の用語は、あまり使われなくなりました。歴史用語になりつつあるようです。

     中世の高砂

 近世以前の高砂のようすから始めます。

 最初に、地名としての「高砂」にみることができます。

 『経国集』は、9世紀の初頭の作品です。

 その後、よく知られるものとしては、『源平盛衰記』・『法然上人絵伝』などに紹介されています。

 しかし、鎌倉・室町時代の高砂は、漁村的性格が強い集落であったようです。

 そして、高砂は、江井崎、福泊、飾磨、室津とともに播磨5泊の一つに数えられ、瀬戸内海の屈指の船泊となり、港としての役割は高まっていきました。

   中世の高砂は現在の尾上町(現:加古川市)

 しかし、その「高砂」は現在の高砂ではありません。

 加古川は、まさに暴れ川で、近世(江戸時代)初期、池田輝政改修前は、加古川の流路は、しばしば変動し、阿閇村(あえ:現在の播磨町)から、西は曽根村(現在の高砂市)の間を変動しました。

 したがって、その高砂の河口の高砂泊も流路の変動に伴って移動しました。

 中世の高砂泊は、今日の高砂ではなく、現在の加古川左岸の今津(いまづ:現加古川市尾上町)のあたりでした。

 そのことは『播磨名所巡覧図絵』の「・・・今州(津)の裏口にて・・・」の記述や、天理大学所蔵の『慶長播磨図絵』からも確かめることができます。(no4507)

 *絵:「法然上人絵伝(高砂浦)」より

 きのう(7/1)の散歩(11.641歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(222) 水手供養塔(かこくようとう)

2018-07-02 07:55:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

 「官兵衛が駆ける」の次は、加印地方(旧加古郡・印南郡を指す地域)の近世の歴史探訪に出かけましょう。

 加印地方の近世は高砂が中心になります。が、その前に一つだけ近世以前の高砂の歴史を紹介しておきます。

    水手供養塔(かこくようとう)

 十輪寺(高砂町)を訪ねます。

 本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(写真)があります。

 これは、1592年(文禄元)、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて溺死した水手の供養塔です。

 この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中に96人が溺死したといいます。

 「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆が動員されました。

 「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ・・・」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡しました。

 この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する石造物です。

 96の石塔群は、1730年に建てられた宝篋印塔より古いもので、村人が水手の死を供養するためにつくったものではないかといわれています。(no4506)

 *写真:水手供養塔(十輪寺)

 ◇きのう(7/1)の散歩(15.423歩)

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