安楽寺(東志方細工所)の山門の前の道から岡に抜ける道を少し東へ行くと立派な五輪塔が目につきます。「とんが五輪」(写真)です。
とんが五輪
・・・この五輪塔を「とんが五輪」と呼んでいます。
とんがは「殿が」音転ではないかということである。
伝説では武士の供養塔であろうということである。(以下略)・・・
五輪塔について少し調べておきます。
五 輪 塔(ごりんとう)
現在では、路傍の石仏や五輪塔の多くは、誰が造ったのかわかりません。
ましてや、美術品等と考えてつくられたのではありません。
平安時代以前、仏教は主に貴族や豪族のためのもので、庶民にはまだ縁遠いものでした。
しかし、鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、またたくまに庶民の間に広まりました。
それまでは、金属や木の見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られましたが、鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。
石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安くつくることができます。
五輪塔は、鎌倉時代や南北朝時代までは死者の冥福(めいふく)を祈る供養塔であっても、多くの場合、まだ個人のためのものではなかったのです。
これが、個人の墓塔に使われだすのは、次の室町時代を待たねばなりません。
生活が苦しかった当時の農民は、数人で、また村全体で自分たちの祖先の魂(霊)を供養するために五輪塔を造りました。
ですから時代が新しくなるほど、一般的には五輪塔は小さく、また簡素なものが多くなります。
「とんが」は「とんがり」か?
説明板によると「ある武士の供養塔ではないか」ということですが、このような大きな五輪塔は、一般的に「村で自分たちの祖先の霊の供養のために造られたのが普通でした。
おそらく「とんが五輪」も、村人の祖先の供養のために造られたと想像します。
横に「先のとがった(とんがった)石材」の地蔵様があります。かってな想像をします。
村人は「とんがったと地蔵」の横の五輪塔を「とんが五輪」と呼ぶようになったのではないかと想像するのですが・・・
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