満祐山・円福寺
歴史散策をしていて、ときどき「ものすごい」話題にぶつかることがあります。
「歴史上ホントのことだろうか」と思うことがあるのです。
いま、東志方町を歩いていますが、高畑の円福寺(写真)もその一つです。
円福寺の山号を「満祐山(まんゆうさん)」といいます。
ピンと来ないと方も多いと思います。
満祐は歴史書では「みつすけ」として登場する人物で、満祐の姓は赤松、つまり赤松満祐です。
もうひとつ、満祐が赤松満祐である証拠があります。
満祐の法号(戒名)は、「慈徳院殿性具円福大居士」です。
つまり、高畑の「円福寺」は、満祐の法号(戒名)から付けられています。
歴史上、満祐はあまりにも名高く「ウッソー!」とつい叫んでしまいました。
満祐は「嘉吉の乱」を起こします。
少し、長くなりますが「嘉吉の乱」の復習をしておきます
くじびき将軍
室町時代の四代将軍・義持(よしもち)は42才で亡くなると、その子の義量(よしかず)は、五代将軍となりました。
ところが、彼は酒飲みであったため若死にしました。
その義量には子供がなく、後継ぎをめぐって大問題となりました。
結局、将軍候補者(義持の弟たち4人)の中から「くじ引き」で将軍を決めることになりました。
「くじ引き」で、次の将軍を引き当てたのが義教(よしのり)で、「くじびき将軍」と陰口されました。
当時、播磨・備前・美作(みまさか)の守護を兼ねる赤松家でも異変が起きました。
赤松家三代総領の義則(よしのり)が1427年に亡くなりました。
将軍・義教は、守護の力が大きくなることを嫌っていました。
守護の内輪もめをつくり、干渉し、多くの有力な守護を没落させたのです。
次は赤松!
義教は、赤松の追い落としを狙いました。
永享12年(1440)、満祐の弟の領地(摂津・西宮)をことごとく召し上げ、細川氏に渡せとの命令が出ました。
次は、満祐本人が狙われていることが確実な情勢となりました。
そこで、起きたのが世に有名な「嘉吉の乱(かきつのらん)」です。
「嘉吉の乱」については次号であら筋をおってみます。
*写真:円福寺(東志方町高畑)
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