ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(60):円福寺(東志方・高畑)①

2011-07-27 08:40:58 |  ・加古川市東志方

    満祐山・円福寺

Ennfukuji_3歴史散策をしていて、ときどき「ものすごい」話題にぶつかることがあります。

「歴史上ホントのことだろうか」と思うことがあるのです。

いま、東志方町を歩いていますが、高畑の円福寺(写真)もその一つです。

円福寺の山号を「満祐山(まんゆうさん)」といいます。

ピンと来ないと方も多いと思います。

満祐は歴史書では「みつすけ」として登場する人物で、満祐の姓は赤松、つまり赤松満祐です。

もうひとつ、満祐が赤松満祐である証拠があります。

満祐の法号(戒名)は、「慈徳院殿性具円福大居士」です。

つまり、高畑の「円福寺」は、満祐の法号(戒名)から付けられています。

歴史上、満祐はあまりにも名高く「ウッソー!」とつい叫んでしまいました。

満祐は「嘉吉の乱」を起こします。

少し、長くなりますが「嘉吉の乱」の復習をしておきます

    くじびき将軍

室町時代の四代将軍・義持(よしもち)は42才で亡くなると、その子の義量(よしかず)は、五代将軍となりました。

ところが、彼は酒飲みであったため若死にしました。

その義量には子供がなく、後継ぎをめぐって大問題となりました。

結局、将軍候補者(義持の弟たち4人)の中から「くじ引き」で将軍を決めることになりました。

「くじ引き」で、次の将軍を引き当てたのが義教(よしのり)で、「くじびき将軍」と陰口されました。

当時、播磨・備前・美作(みまさか)の守護を兼ねる赤松家でも異変が起きました。

赤松家三代総領の義則(よしのり)が1427年に亡くなりました。

将軍・義教は、守護の力が大きくなることを嫌っていました。

守護の内輪もめをつくり、干渉し、多くの有力な守護を没落させたのです。

   次は赤松!

 義教は、赤松の追い落としを狙いました。

永享12年(1440)、満祐の弟の領地(摂津・西宮)をことごとく召し上げ、細川氏に渡せとの命令が出ました。

次は、満祐本人が狙われていることが確実な情勢となりました。

そこで、起きたのが世に有名な「嘉吉の乱(かきつのらん)」です。

「嘉吉の乱」については次号であら筋をおってみます。

 *写真:円福寺(東志方町高畑)

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