平荘神社(加古川市平荘町山角)の正面の石段上り口の左右に各一面の板碑(いたび)がある。
何れも、この付近の古墳から掘り出された組み合わせ式石棺の側石を利用したものと思われる。
向かって、右側(写真)の板碑には、梵字で、マン(文殊菩薩)・バク(釈迦如来)・アン(普賢菩薩)の釈迦三尊が、左側の板碑にはサ(観音菩薩)・キリーク(阿弥陀如来)・サク(勢至菩薩)の阿弥陀三尊と弘安二の記銘がある。
弘安二年(1279)といえば、現在確認されている加古川市内の石造物記銘としては最も古いものである。
ここは、平荘神社である。現代人の感覚からすると神社に釈迦三尊・阿弥陀三尊とは少し不思議な感じもする。
このことについて「知っておきたい日本の神様(武光誠著)」の一部を読んでおきたい。
「・・・・6世紀のなかば、仏教が伝わった。そこには有益な知識や技術がふくまれていた。
平安時代の初めになると、神社側では『このままでは、自分たちは時代遅れになるぞ』という声がひろまった。
そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事をおこなわせた。・・・また、仏教側力のがわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めた
中世以降、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)によって、日本の主だった神様は仏が仮の姿であらわれたものだとされた・・・」
このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していた。しかし、明治初年に、政府は、仏教と神道を分離させることを命令した。神仏分離である。