万治元年(1658)、姫路藩は、藩をあげての升田堤(升田から船頭にかけての堤)の大工事をおこなった。
途中、工事が大方完成した時だった。この地方一帯は、暴風雨に見舞われた。
雨は数日降り続き、濁流は苦心の堤防を押し流してしまった。この工事は藩の威信をかけた工事であり、厳しい命令が出た。少しの遅れはあったものの工事は完成した。
*升田堤の完成により洪水は減ったが、その後もしばしばこの地方は洪水の被害に悩まされ続けた。
この時の洪水は上流の村々も直撃した。特に、「中島新田」は洪水をまともに受け、村は壊滅した。
中島新田のあった場所は、今の養老の一部である。江戸時代芝村の一部であった。村を失った人々は小畑(こばた)に移住し、新たに新田を開発した。
翌年から、中島新田の近隣の人々は中島新田へ入植し、再び村の開発に当たり2年後、中島新田を復活させた。
それから、14年後のことであった。またも、この地を洪水が襲った。村は再び壊滅した。
中島新田の6家族は蔭山新田(現:磐)に移住し、新しい村の開発に当たったのである。
*図は「KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史」(伊賀なほゑ著)より