姫路藩が木綿の江戸積みをはじめてから、木綿問屋など村の富農層は、土地を集め、いっそう経営規模を拡大させた。
反面、貧しい農民は土地を手放し、その格差は大きくなった。
この傾向は明治になり、ますます広がった。明治14年のようすを見ておきたい。
兵庫県下の平均小作率は44.5%と高率であったが、加古郡は55%、印南郡は53%と綿作のさかんな両郡とも県平均をはるかに上回る小作率であった。
見土呂の大西家は、天保7年(1836)木綿取締役に就任してから、以前にもまして経営規模を拡大させ、毎年2,3万反の綿布を取り扱っていたようである。
大西家は、木綿だけでなく、干鰯(ほしか)、呉服も商い、さらに酒、醤油の醸造などもおこなっていた。(挿絵は明治20年ごろの大西家の醤油製造所-「淡播農商工便覧」より)
明治18年には、近隣に138町を有する県下、第4位の地主にまで成長した。
*訂正とお詫び:昨日のブログの「都染の大西家」は、「見土呂の大西家」の誤りです。訂正して、お詫びします。