平清盛は大きな功績があったということで、天皇から、播磨の地、500町を賜った。
やがて、平氏は鎌倉方に敗れ、北条本家筋が播磨の守護になると、それらの土地は北条家に引き継がれた。
神戸大学の石田先生(故人)は、さまざまな資料から、北条氏が平氏から得た播磨の土地は五箇荘(ごかのしょう)であったと推測されている。
奈良・西大寺領の印南荘(いなみのしょう)(平の荘は印南荘の一部)も五箇荘に含まれていたようである。鎌倉時代、五箇荘は、現在の加古川市・加古郡のほとんどの地域を含んでいたようだ。
現在、報恩寺は真言宗の寺で、高野山に属しているが、鎌倉時代は奈良・西大寺の真言律宗の寺であった。というのは、北条氏が真言律宗と深い関係があったためと考えられる。
《報恩寺の奉加帳》
報恩寺には、県の文化財にも指定されている奉加帳がある。いろいろな書物にも取り上げられている有名なものである。
この奉加帳(1432?)には、将軍・足利義教(よしのり)、管領・細川持氏それに赤松満祐(みつすけ)の名前がある。
驚かれたと思う。1441年に大事件がおこった。将軍・足利義教が赤松満祐に殺されたのである。世に言う、嘉吉の乱である。
そして、この乱を管領として処理をしたのが細川持氏であった。
これら3人が同じ奉加帳にあるのは珍しく、早くから注目されていた。
この奉加帳をまわしたのは赤松貞村で、赤松円心(満祐の祖父)の次男のひ孫にあたる人物で、幕府で影響力をもっていた。
赤松氏が、この五箇荘を赤松家のものにしようと狙っていのであろう。
*写真は報恩寺(加古川市平荘町山角)