江戸時代も終わりの頃、特に文化文政期(1800年代のはじめ)、加古川地方の綿作は、ずいぶん盛んだった。
中でも海岸部の尾上地区がその中心であった。
尾上の池田・養田(ようた)にその例を見ると、安政4年(1857)池田村では畑作の中で、綿作の占める割合は86%、(養田73%)を占めており、全田畑では池田66.8%、(養田66.3%)と、ずいぶん綿作がさかんだった。
秋には、いちめんに真っ白な綿花のある風景が広がっていたことだろう。
明治5年、学制が発布され、明治政府は教育の普及に努めた。この学制が実施された3年後の明治8年に、全国で24.225の小学校がつられた。
池田村では、観音寺を小学校として利用し、「綿里小学校」と名づけた。まさに池田は綿の里だった。
*絵は綿の花