ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

金のイヤーリング(カンス塚古墳出土・加古川市)

2006-08-11 07:58:59 |  ・加古川市上荘・平荘町

68c92d10_1  平荘湖古墳群のほとんどの古墳は7世紀のものである。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼる古いものである。

  カンス塚古墳は平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳である。

  一部盗掘されていたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品があった。

  中でも一対の金のイヤーリング(写真)は注目を集めた。

  県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけである。全国でも、50ほどの出土例しか知られていない。

  朝鮮半島からもたらされたものである。この古墳の主とその交易関係に興味がわく。

  それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味だろうか。前々から気になぅていた。

  この古墳から出土した鉄鉗(かなはし)に注目して欲しい。この鉄鉗の形がカンス塚古墳の形(帆立貝式古墳:前方後円墳の前方部が短いもの)に似ているという。つまり、カンスはカナハシが変化した単語であるというのである。

  また、「カンスは鉄・銅で作った湯沸かし器や茶の湯で用いる茶釜をいう」と辞書にある。ホタテの形に似ていなくもない。

  定説はない。不思議な名前のままでよい。

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山角廃寺(加古川市平荘町)

2006-08-10 06:30:00 |  ・加古川市上荘・平荘町

_131   平荘小学校の校庭の隅に、塔の心礎(写真)がある。中心に円形の孔が彫りこまれている。

  かつて、山角(やまかど)に寺があったことを物語っている。

  この寺の元の位置についてははっきりしないが、近くに古瓦の散布が見られたという報告もある。おそらく、この付近にあったのであろう。

  仏教は6世紀に朝鮮よりもたらされた。そして、白鳳時代(645~710)に、非常な勢いで全国各地にひろがった。

  山角にある古代寺院はその一つである。加古川市には、同時期の寺院として、野口・西条・中西(西神吉町)・石守(神野町)等でも確認されている。

  この寺院を建設したのは、どんな人物だろうか。

  時代は仏教文化が、古墳文化にとって変わろうとする時期であった。とすると、この寺院を建設したのは、それまで古墳を築いていたこの地域の豪族でなかったかとも想像できる。

  平荘は、加古川右岸では古墳の発達した場所であった。

  山角廃寺のすぐ東隣に報恩寺がある。山角廃寺との連続性を考える向きもあるが、この点について加古川市史(第一巻)は「・・今後における資料増加に期待するとして、ここでは7世紀末から8世紀はじめのころに創建された山角廃寺の存在を推測することにとどめておきたい・・・」としている。

《山角》

  荘園時代、山角辺りは、印南荘屏村と呼ばれていた。屏は塀であり、西と北を山(塀)で囲まれた地形である。

  慶長時代の絵図では、山角は山門の字を当てており、村の名前は、山(塀)の前にある村の意から来ているのかもしれない。

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薬栗(加古川市上荘町)

2006-08-09 05:41:42 |  ・加古川市上荘・平荘町

11409a06_1 《薬栗》   *慶長時代の絵図では「葛栗」の字をあてている。

  「古地名新解(石見完次著)」と「加古川万華鏡(岡田功著)」を手がかりに、薬栗を訪ねたい。

  地名語源辞典では、クスクリのクスはたいてい崖・自然堤防・崩れの意味で、クリは刳りとられた地形、または栗石のことであるという。

  確かに、薬栗は承応年間(1652~55)に東方の小字・古屋敷(ふるやしき)から移住している。また、寺の元(てらのもと)・寺の山(てらのやま)という小字があるが元、長慶寺があった場所である。

  ともに移住の原因は洪水であろう。

《薬栗・長慶寺山古墳》

  加古川右岸には、左岸に比べ古墳の規模・数において圧倒的に劣っている。その中にあって、長慶寺山にある古墳群は、内行花文鏡などを出土した貴重な古墳群である。

  この古墳に関して「加古川市史(第一巻)」に、少し気になる記述がある。

  「・・・前方後円墳(長慶寺山古墳群のこと)は、1955年(昭和30)に地元の中学生によって、不用意に発掘されたため、詳細はよく分からない。・・・・(出土品により)4世紀古墳にさかのぼる古墳かと考えられる。

  4世紀古墳とすると、日岡古墳群と同時期の古い時代のものである。古墳時代、薬栗あたりは、左岸に劣らず輝いていた。

* 図は長慶寺山古墳群(「播磨風土記への招待」-浅田芳朗著」より

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神仏分離(平荘神社の板碑に見る)

2006-08-08 12:00:15 |  ・加古川市上荘・平荘町

_088_1  平荘神社(加古川市平荘町山角)の正面の石段上り口の左右に各一面の板碑(いたび)がある。

  何れも、この付近の古墳から掘り出された組み合わせ式石棺の側石を利用したものと思われる。

  向かって、右側(写真)の板碑には、梵字で、マン(文殊菩薩)・バク(釈迦如来)・アン(普賢菩薩)の釈迦三尊が、左側の板碑にはサ(観音菩薩)・キリーク(阿弥陀如来)・サク(勢至菩薩)の阿弥陀三尊と弘安二の記銘がある。

  弘安二年(1279)といえば、現在確認されている加古川市内の石造物記銘としては最も古いものである。

  ここは、平荘神社である。現代人の感覚からすると神社に釈迦三尊・阿弥陀三尊とは少し不思議な感じもする。

  このことについて「知っておきたい日本の神様(武光誠著)」の一部を読んでおきたい。

  「・・・・6世紀のなかば、仏教が伝わった。そこには有益な知識や技術がふくまれていた。

  平安時代の初めになると、神社側では『このままでは、自分たちは時代遅れになるぞ』という声がひろまった。

  そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事をおこなわせた。・・・また、仏教側力のがわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めた

  中世以降、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)によって、日本の主だった神様は仏が仮の姿であらわれたものだとされた・・・」

  このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していた。しかし、明治初年に、政府は、仏教と神道を分離させることを命令した。神仏分離である。

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幸圓

2006-08-07 07:31:15 |  ・加古川市の歴史人物

Cb84333a  「 幸圓」といわれても、すぐに誰のことか思いうかっばないであろう。

  幸圓は黒田官兵衛(如水)の妻である。官兵衛(写真)は、戦国時代の武将にしては、めずらしく生涯一夫一妻を貫いた。

  幸圓は志方(加古川市)城主、櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘である。

  長男は、福岡藩の城主・黒田長政(くろだながまさ)である。

  彼女は、官兵衛の妻として、長政の母として順風な人生を過ごしたのではなかった。戦国時代のことで、危機は何度も経験している。

  第一の大きな危機は、官兵衛が有岡城(伊丹市)に幽閉され、信長は、官兵衛が寝返ったものと疑い人質の長政の殺害を命じた。

 (* 長政は竹中半兵衛が信長の命に背き、ひそかに匿って一命をとりとめた。)

  この時は、夫と子供の安否を気遣い、幸圓は生きた心持もなかったことであろう。危機は自分の身にも降りかかってきた。

  夫、官兵衛は関が原の一戦では、家康側(東軍)にたつ。長男・長政は家康の上杉討伐に出陣する。果せるかな、大阪方は幸圓を人質として大阪城へ移すように告げた。これは幸圓の死を意味していた。

  大坂からの脱出を計画するが、よい方法が浮かばない。

  この時である、玉造方面から火の手が上がった。大阪方の人質を拒んで自害した細川ガラシャと細川邸を焼く炎であった。警備の目は、そちらに向いた。一瞬の空白の時間が出来た。

  幸圓は脱出に成功する。ガラシャが幸圓の身代わりをしてくれたのである。

  幸圓は、後に歌を詠んでいる。その時、幸圓の名前を使った。たぶん雅号であろう。史書には、志方城主、伊定の娘とあり、本当の名前はない。

  とにかく、幸圓は、志方(加古川市)出身である。地元でも、あまり知られていない。日本史の主役につながる人物を誕生させたとは痛快ごとである。もっと紹介されて良い歴史である。

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3つの益気神社

2006-08-06 06:16:11 |  ・加古川市東神吉町

_119   事件は、文禄3年(1594)年、平ノ荘神社16ヵ村の代表者の参詣の時におきた。

*(16ヵ村:益気郷3ヵ村、平ノ荘13ヵ村)

  益気・・・平の面々、益気の中にも御歴々(おれきれき)がいるのだが、毎年益田の者は下座に座っている、座を改めて我々を上座にすればどうか。

  平ノ荘・・・御歴々であることは承知しているが、益気の人の中には、殺生を仕事とする者がいる。・・・穢わしい。(益田の者に川漁の権利が認められていることを指す=秀吉の免状)

  売り言葉に買い言葉、日ごろの不満が燃え上がった。その勢いは、すさまじいものであった。

  この時、近郷からこの喧嘩を見ようと数万の人が押しかけたと言う。

  この事件のあと、慶長4年(1599)益気郷は益田山(加古川市東神吉町)に益気神社(ますけじんじゃ)を建てた。

  その後、池尻村も平ノ荘の氏子から抜け池尻村に、益田新村(出河原村)も益気神社が創建され、3つの益気神社が誕生した。

  益気神社という名称から、奈良時代の創建を想像してしまうが、平ノ荘神社から分かれた比較的新しい神社である。

*写真は出河原(加古川市東神吉町)の益気神社

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上原(かみはら・加古川市平荘町)

2006-08-05 05:06:13 |  ・加古川市上荘・平荘町

_104   天文元年(1532)の報恩寺の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とある。

  ここに見える原村は、現在の上原(かみはら)でる。

  志方町に原村があったため、平荘の原は、これと区別するために、明治11年、村名を原から上原に変えた。

  この時、志方町の原村は下原(しもはら)と変わったが、昭和29年、西志方町原は志方町と合併時に元の「原」に戻している。

  それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像される。詳細はわからない。

  「上原」は、そのまま今日にいたっている。

  元禄前期に、加西郡の鶉野(うずらの)、また池尻村の里からの移住があったとする記録がある。

  上原には神木谷(こうぎだに)、長尾谷(ながおだに)、井ノ谷(いのたに)、仁蔵ヶ谷(にぞうがたに)、西原溝下、西原溝上、タン田、川端と水に関する小字名が多い。

  「権現川」の水や、その他の谷あいの水があった。上原は古くから発達した村である。水害等も少ない土地であった。

  上原古墳がある。この時代にも、ここに人が住んでいた。

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三島由紀夫と松の木

2006-08-04 02:14:58 |  ・加古川市の歴史人物

_125   「三島由紀夫 in 加古川 市」(6月21日のブログ)で三島由紀夫の二回の加古川訪問について書いた。

  その時は、三島の自伝的小説「仮面の告白」と猪瀬直樹氏の「ペルソナ」を参考にした。

  「ペルソナ」では、三島の加古川での徴兵検査のようすを、次のように書いている。

  「・・・加古川の公会堂で行われた徴兵検査は、学習院の青年にとって間違いなく惨めな体験だったはずだ。

  徴兵検査は、体重や身長、視力を測りチェックするだけではない。腕力を確かめた。走ったり跳んだりでなく、重量挙げである。

  (この時、三島と一緒に検査を受けたF氏は)僕(猪瀬)を、かつて加古川の公会堂でだった場所へ案内してくれた。・・・・・今は市立図書館として衣替えされたが、建物の概観は、ほとんど変わらない。

  建物脇に、幹が斜めに傾いた一本松がある。枝ぶりは昔のままだそうだ。この松の木の下に並んだ若者たちは、順番に力比べをする。・・・」

  三島由紀夫は、この木の下で徴兵検査を受けたが、よほど屈辱を味わったのであろう「仮面の告白」で、その時の様子を書いている。

  「三島由紀夫 in 加古川市」を書いたとき、この松のことが気になった。公会堂の周辺をうろついた。それらしい木があったが、確かめることが出来なかった。

  先日(8月2日)の神戸新聞の東播版は「文豪ゆかりの松」として、この松を紹介した。「やはりあの木だったのだ!」と嬉しくなった。

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かみそう・へいそう(加古川市)

2006-08-03 06:38:54 |  ・加古川市上荘・平荘町

_123   正和5年(1316)の「報恩寺の文書」に、「播磨国印南荘屏村(へいむら)」とある。

  印南荘(奈良・西大寺の荘園)には屏・都染・益田などが含まれており、屏とは平で、後に平之荘(へいのしょう)と呼ばれ、平荘町の語源にもなっている。

  とすれば、平荘は「へいしょう」と読むのが自然である。交差点の案内板(写真)を見て欲しい。ローマ字で「Heisocho」とあり、「へいそうちょう」と読ませている。

  市役所で正式な読み方を訊ねてみた。

  読み方は、「日本行政区画便覧によって、それぞれへいそう・かみそうと読むのが正式である」との答えであった。

  平荘小学校に訊ねると学校名は「へいそうしょうがっこう」であり、上荘小学校に問い合わせると「かみしょうしょうがっこう」で、校歌も「かみしょうしょうがっこう」と歌っているとのことであった。

  住民の方に尋ねても、どちらともはっきりしない。

  原因は、昔「かみしょう」「へいしょう」と呼んでいたが、行政が書類・刊行物で「へいそう」「かみそう」と読ませて、徹底しないまま、今に至っているというのが真相ではないだろうか。もちろん、これは勝手な推論である。

  歴史的には「へいしょう」「かみしょう」が正しい読み方だと思うのだが・・・

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天坊山(加古川市上荘町)

2006-08-02 09:31:30 |  ・加古川市上荘・平荘町

_116   写真中央の山(右の尾根)は天坊山(てんぽうさん)である。名前の由来は分からないが、近くの山角(やまかど)の名刹、報恩寺と関係があると思える。

  報恩寺は明徳2年(1391)、奈良・西大寺の末寺であり、多数の塔頭寺院を擁していたことが知られている。

  昭和43年、天坊山は注目を集めることになった。山頂に関西電力が鉄塔工事をしたが、その途中で古墳が発見されたのである。

  直径16メートルの円墳で古墳時代前期(4~5世紀)の古墳である。

  一基の石室から、壮年男子の人骨が見つかった。その他の出土品は刀・ヤリガンナ槍・くさび形鉄器・鎌・クワ・土師器の壷など多いが、それぞれの量は少ない。東側の石室は一回り小さいが、鏡(画文帯神獣鏡)などを出土している。

  埋葬されたのはこの地域を治めた有力者であろう。それにしても発見された場所は、標高163メートル山頂にある珍しい古墳である。

  *天坊山の所在地は加古川市上荘町小野であるが、写真は上原(かみはら)から見た天坊山。

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一本松(加古川市平荘町)

2006-08-01 07:18:25 |  ・加古川市上荘・平荘町

_109   姫路市の国道2号線、市川橋東詰周辺に一本松(姫路市花田町)がある。

  この姫路市の一本松について「姫路の町名」(神戸新聞総合出版センター)は、次のように説明している。

  この村は、元は西南のところにあり、大きな一本の老木があったので一本松と呼ばれるようになっていたが、明暦年間(1655~58)に市川の本流が改修された時、川の中に没した。村は原野だった現在の所に移って「一本松原田村」となり、のちに「一本松」と称するようになった。村人の一部は印南郡平荘村(加古川市)に移り一本松新村を作ったといわれる。

  平荘町の一本松は、姫路の一本松村の人が移住して出来た村である。後には、牛谷(高砂市)からの移住もあり、元禄10年(1697)の記録では村高約170石の規模の大きな新田村となっている。

  自分たちのルーツを末永く留めたかったのであろう。村の名称を「一本松新田」とした。

  一本松新田は、明治22年4月1日、平荘の村々と合併して、平荘村一本松となった。

  一本松のバス停のある場所(写真)にいる(7月30日)。遅かった今年の梅雨も明けたらしい。「一本松」は夏草と入道雲の中にある。静かであった。

*写真は一本松バス停

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