ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

幸圓

2006-08-07 07:31:15 |  ・加古川市の歴史人物

Cb84333a  「 幸圓」といわれても、すぐに誰のことか思いうかっばないであろう。

  幸圓は黒田官兵衛(如水)の妻である。官兵衛(写真)は、戦国時代の武将にしては、めずらしく生涯一夫一妻を貫いた。

  幸圓は志方(加古川市)城主、櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘である。

  長男は、福岡藩の城主・黒田長政(くろだながまさ)である。

  彼女は、官兵衛の妻として、長政の母として順風な人生を過ごしたのではなかった。戦国時代のことで、危機は何度も経験している。

  第一の大きな危機は、官兵衛が有岡城(伊丹市)に幽閉され、信長は、官兵衛が寝返ったものと疑い人質の長政の殺害を命じた。

 (* 長政は竹中半兵衛が信長の命に背き、ひそかに匿って一命をとりとめた。)

  この時は、夫と子供の安否を気遣い、幸圓は生きた心持もなかったことであろう。危機は自分の身にも降りかかってきた。

  夫、官兵衛は関が原の一戦では、家康側(東軍)にたつ。長男・長政は家康の上杉討伐に出陣する。果せるかな、大阪方は幸圓を人質として大阪城へ移すように告げた。これは幸圓の死を意味していた。

  大坂からの脱出を計画するが、よい方法が浮かばない。

  この時である、玉造方面から火の手が上がった。大阪方の人質を拒んで自害した細川ガラシャと細川邸を焼く炎であった。警備の目は、そちらに向いた。一瞬の空白の時間が出来た。

  幸圓は脱出に成功する。ガラシャが幸圓の身代わりをしてくれたのである。

  幸圓は、後に歌を詠んでいる。その時、幸圓の名前を使った。たぶん雅号であろう。史書には、志方城主、伊定の娘とあり、本当の名前はない。

  とにかく、幸圓は、志方(加古川市)出身である。地元でも、あまり知られていない。日本史の主役につながる人物を誕生させたとは痛快ごとである。もっと紹介されて良い歴史である。

コメント
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