ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

報恩寺(加古川市平荘町山角)

2006-08-13 06:52:40 |  ・加古川市上荘・平荘町

_091   平清盛は大きな功績があったということで、天皇から、播磨の地、500町を賜った。

  やがて、平氏は鎌倉方に敗れ、北条本家筋が播磨の守護になると、それらの土地は北条家に引き継がれた。

  神戸大学の石田先生(故人)は、さまざまな資料から、北条氏が平氏から得た播磨の土地は五箇荘(ごかのしょう)であったと推測されている。

  奈良・西大寺領の印南荘(いなみのしょう)(平の荘は印南荘の一部)も五箇荘に含まれていたようである。鎌倉時代、五箇荘は、現在の加古川市・加古郡のほとんどの地域を含んでいたようだ。

  現在、報恩寺は真言宗の寺で、高野山に属しているが、鎌倉時代は奈良・西大寺の真言律宗の寺であった。というのは、北条氏が真言律宗と深い関係があったためと考えられる。

《報恩寺の奉加帳》

  報恩寺には、県の文化財にも指定されている奉加帳がある。いろいろな書物にも取り上げられている有名なものである。

  この奉加帳(1432?)には、将軍・足利義教(よしのり)、管領・細川持氏それに赤松満祐(みつすけ)の名前がある。

  驚かれたと思う。1441年に大事件がおこった。将軍・足利義教が赤松満祐に殺されたのである。世に言う、嘉吉の乱である。

  そして、この乱を管領として処理をしたのが細川持氏であった。

  これら3人が同じ奉加帳にあるのは珍しく、早くから注目されていた。

  この奉加帳をまわしたのは赤松貞村で、赤松円心(満祐の祖父)の次男のひ孫にあたる人物で、幕府で影響力をもっていた。

  赤松氏が、この五箇荘を赤松家のものにしようと狙っていのであろう。

*写真は報恩寺(加古川市平荘町山角)

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