平荘小学校の校庭の隅に、塔の心礎(写真)がある。中心に円形の孔が彫りこまれている。
かつて、山角(やまかど)に寺があったことを物語っている。
この寺の元の位置についてははっきりしないが、近くに古瓦の散布が見られたという報告もある。おそらく、この付近にあったのであろう。
仏教は6世紀に朝鮮よりもたらされた。そして、白鳳時代(645~710)に、非常な勢いで全国各地にひろがった。
山角にある古代寺院はその一つである。加古川市には、同時期の寺院として、野口・西条・中西(西神吉町)・石守(神野町)等でも確認されている。
この寺院を建設したのは、どんな人物だろうか。
時代は仏教文化が、古墳文化にとって変わろうとする時期であった。とすると、この寺院を建設したのは、それまで古墳を築いていたこの地域の豪族でなかったかとも想像できる。
平荘は、加古川右岸では古墳の発達した場所であった。
山角廃寺のすぐ東隣に報恩寺がある。山角廃寺との連続性を考える向きもあるが、この点について加古川市史(第一巻)は「・・今後における資料増加に期待するとして、ここでは7世紀末から8世紀はじめのころに創建された山角廃寺の存在を推測することにとどめておきたい・・・」としている。
《山角》
荘園時代、山角辺りは、印南荘屏村と呼ばれていた。屏は塀であり、西と北を山(塀)で囲まれた地形である。
慶長時代の絵図では、山角は山門の字を当てており、村の名前は、山(塀)の前にある村の意から来ているのかもしれない。