綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河伝えられたのが最初であるというが、栽培技術が伴わずその時は絶滅した。
その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になった。
木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立った。
江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになった。
姫路木綿は、品質がよかった。市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していたのである。
姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得た。この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていない。
*「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことである。
江戸時代の終わりのころ。秋には、真っ白な綿のある風景が一面にひろがっていたのであろう。
来週のブログでは、加古川地方の綿作について、取り上げたい。
*挿絵は「播州あたりにて綿を作る図」(綿圃要務)より
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