前号の続きです。
文観(もんかん)ってWHO?(1)
南北朝時代の研究も進んできました。南北朝時代といえば、どなたも後醍醐天皇をお思い浮かべられることでしょう。
その、後醍醐天皇の第1のブレーンが文観でした。
ですが、文観は、謎だらけの人物とされていました。
従来も「文観は加古川生まれはないか・・・」という伝承はあったのですが、はっきりとしていませんでした。
研究が進み、徐々にその姿をあらわしてきました。
はっきりすると、日本史の快挙となります。
それでは、文観について簡単ですが、2回にわたり紹介しましょう。
文観は播磨「常楽寺(加古川市大野)」の僧
文観は、もっぱら後醍醐天皇の、黒幕のような人間と思われてきました。そして、彼の生まれも、播磨の人というだけでした。
後に文観は、西大寺の(真言)律宗寺院と深いかかわりをもった僧侶になっています。
中世史の高名な学者である網野善彦氏は、『日本中世史像の再検討』(山川出版社)で、はっきりと、次のように「文観は、播磨常楽寺(加古川市大野)の僧侶であった」とはっきりと主張されました。・・・・
その後、西大寺に移り、そして真言宗を学んで頭角を現し、当時最も社会的にも勢力のあった醍醐寺の座主となり、当時の長者をも兼ねています。
このころ延暦寺の社会的勢力が院政期よりかなり低下していて、それに代って台頭してきたのが醍醐寺でした。
彼は、そこの最高権力者になったのです。
南北朝の歴史をよくよく見つめれば、後醍醐天皇を躍らせているのは、彼にほかならいのかもしれません。
彼は、南北朝時代のプロデューサーとして、南北朝争乱の企画、立案、制作、演出を担当しているのです。
文観は、やはり加古川の人
『太平記』は、文観は主に加西の法華寺(一乗寺)で修業した僧侶であったと疑っていません。
太平記の作者にとって、播磨の国の寺といえば、イコール法華山一乗寺であり、氷丘村の常楽寺はあまり知識の中にはなかったのではないかと想像します。
文観の修業した寺として、当然のごとく法華山一乗寺と結びつけたのでしょう。
歴史学者・網野善彦氏も、歴史研究の結果、太平記の「法華寺」は「播磨の律宗寺院常楽寺」(『日本中世史の再検討(p32)』(山川出版社)で修業した僧であるとされています。(no3513)
*挿絵:文観