文観は、後醍醐天皇と結びつく
醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺でした。中でも醍醐寺の道淳(順)が、後醍醐天皇の信頼を得ていました。
文観は、この道淳の直弟子でした。
文観は、師である道淳の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたのでしょう。
たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。
鎌倉幕府打倒を・・・・
この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは当然のことでした。
政治好き、権謀好きにとって、陰謀、革命くらい心の躍る課題はありません。
さっそく仲間を集め、秘策が練られました。
この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた、と『太平記』は書いています。
しかし、それらの「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。後醍醐天皇は隠岐の島へ流されます。文観は硫黄島(いおうじま、現:鹿児島県鹿児島郡三島村)へ流罪となりました。
しかし、奇跡的に隠岐の島を抜け、都へ返り咲き、天皇修身の政治をはじめました。これが建武の新政です。
建武の新政で復活
武家政治を頭から否定する後醍翻の政治(建武の新政)は、まさに時代錯誤の連続でした。
その道をたどらせた文観も、その責は負わねばなりません。
その後、足利尊氏との対決に敗れた後鞭醐は、またもや都を飛び出し、吉野へ落ちるのですが、その吉野も文観の支配する醍醐寺の系統の寺でした。
豊富な人脈
文観は、後醍醐の吉野行では、もちろん行動をともにしています。
やがて、後醍醐が吉野で世を去り、後村上時代になりました。
いってみれば、南北朝の内乱は、文観が武家社会を向うにまわし、手持ちの人と財力を総動員して打った大ばくちともいえるのではないでしょうか。
武家相互の戦いの隙間を縫って、公家・寺社などの旧勢力のあったことを見逃せません。
文観は、いわば、旧勢力の代表的人物としてとらえられるべきでしょう。
正平十二年(1357)年、文観はなくなりました。80歳。
河内の金剛寺が臨終の地でした。
文観は語らない
文観の生まれは、加古川ではないかと想像していますが、若い時代について、彼はなにも語っていません。 語りたくなかった事情があったのでしょうか。(no3514)
*写真:常楽寺(加古川市大野)