文観は語らない
それにしても不思議なことです。
おいおい文観の経歴も紹介したいのですが、日本の歴史を大きく揺すった後醍醐天皇のブレーンとして歴史にその名を残しておきながら、自分の子供のころについては何にも語っていません。
その文観が、加古川出身ということになれば、さらに若いころ、つまり加古川時代の文観ついて知りたくなります。
今回の内容は「歴史」ではありません。私の勝手な「物語」としてお読みください。
前回の史料を手がかりに語ってみます。
前回の史料①、・・・文観の弟子であった宝蓮が筆写した『瑜伽伝灯抄』によれば、文観は源雅信第十三代の子孫・大野源大夫重真の息子であるが、この重真は播州の人である。
史料②、興福寺の衆徒が文観を「(文観は元)西大寺末寺、播磨国北条寺之律僧也」と述べている。
特に①の資料に注目ください。史料にあるから事実であるとは限りませんが、この資料を手掛かりにします。
文観は大野の人
史料①は、名前からして武士のようです。
それも、大野重真の子というのですから、祖先の出身地は定かではないのですが、大野に定住した武士だと想像します。
この時代ですから、当然農業も兼ねていた武士のはずです。
それもあまり高い位ではなかったかと想像するです。
その武士の子が僧侶を選んで常楽寺の僧を選んだ理由はなんだったのでしょう。
史料があっての話ではありません。後の文観から想像してみます。
彼は、非常に聡明な人物で絵や文字の才能に恵まれた人物だったようです。
才能に恵まれながら、地位のあまりない人物が世に出ようとすれば一番の近道は僧侶になることです。
僧侶は、身分に比較的関係なく能力が認められる仕事です。
田舎の武士の子文観も大望(野望)を持ち僧侶になることを選んだのではないかとは想像するのです。
文観は、二男か三男であったのかもしれません。長男であれば家を継がなければなりません。
大野に住んでいた文観です。大野の常楽寺を選んだのは自然のことのようです。(no3528)
*写真:現在の常楽寺山門
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