ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東播磨の中世石塔と文観(2) 常樂寺の宝塔は、文観慈母塔ではない

2017-03-23 09:45:23 | 東播磨の中世石塔と文観

    常樂寺(加古川市加古川町大野)の宝塔は、

         文観慈母塔ではない

 加古川市と文観の関係を述べる場合、なんといっても常楽寺の宝塔から始めなければならないようです。

 常楽寺は、加古川市加古川町大野の高野山真言宗の古刹です。

 山門への石段の前を流れる新井(しんゆ)用水路を少し西へ行くと、大きな五輪塔に挟まれた立派な花崗岩製の宝塔と凝灰岩性の五輪塔があります。

 まず、宝塔について調べてみます。 

    常楽寺宝塔について
 この宝塔について、墓地の説明版によると次のようです。

   花崗岩製
    高さ   2.35メートル
    銘文   正和四年(1315)乙卯八月 日 
    願主   沙弥道智

 この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時慈母をここ葬ったと伝えています。
 が、この宝塔の願主は文観でなく道智です。

 さらに、いまとなっては確かめようもないのですが、『播磨鑑(はりまかがみ)』には、塔下三尺(約90㎝)×六尺(約181cm)石箱を埋め、さらに中に壺と黄金の器とを重ねて三重にし、それには「宝生山常楽寺院主大僧正菩薩比丘広信(こうしん)為母遺骨納之」の銘文があったといいます。
 *広信(こうしん)は文観のこと
 『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(1688~1704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)から、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたようです。

 文観の母親は、建武元年(1334)5月に亡くなっています。

 それは、常楽寺宝塔造立の19年後のこととなます。したがって『播磨鑑(はりまかがみ)』の記載をそのまま信じることはできません。

 願主は道智であり、宝塔造立当初の願意が悲母供養ではなかったことは明らかです。

 それでは、この宝塔は文観と結び付かないのでしょうか。(no3519)

 *写真:常樂寺の宝塔と五輪塔

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