「加古川広報(昭和30年3月)」は、加古川市と山手三村との合併を特集しています。
合併の経過が分かりにくいので、別のところで紹介した文章を掲載します。
平荘村・上荘村・八幡村(山手三村)との合併
昭和27年、山手三村と加古川市の合併を働きかけたのは平荘村でした。
当時の加古川市は、高砂を含めて海岸部及び東西神吉村との合併を目指しており、山手三村との合併は大きくもりあがりませんでした。
昭和28年、ほとんど進展のなかった山手三村(上荘村・平荘村・八幡村)と加古川市との合併問題は、昭和29年に動き出しました。
まず、以前より合併を望んでいた八幡村が動きました。
八幡村は、合併について住民投票を実施しました。第一案は、東部の加古郡加古村・母里村・天満村との合併、第二案は印南郡上荘村・平荘村との合併、そして第三案が加古川市と合併を希望するというものでした。
結果は、第一案44、第二案14、第三案679、態度不明48と、圧倒的多数で八幡村の住民は加古川市との合併を選びました。
しかし、さいさんの八幡村から加古川市への呼びかけに対して、当時加古川市は、海岸部の阿閇村(あえむら:現播磨町)・米田町との合併を目指しており、さらに手を広げ、山手三村との合併問題を取り組む余裕がありませんでした。
それに、八幡村が加古川市と合併するとなると、川東の上荘町国包地区が一緒に加古川市との合併を望むことが予想されました。
つまり、上荘村国包地区の分村問題という新たな問題がおこる可能性が大でした。
さらに、平荘村の加古川市との合併に対する態度がはっきりとしなかったのです。
山手三村と加古川市の合併なる
ところが、昭和30年になると事情は一変しました。というのは阿閇村(現:播磨町)の加古川市との合併についての住民投票の結果は、加古川市との合併をはっきりと拒否をした。
米田町との合併も暗礁に乗り上げていおり、加古川市長の発言も、明らかに方針変更が認められました。
昭和30年1月25日には、加古川市の議長・合併委員長・助役が山手三ヶ村を訪問し、正式に合併を申し入れました。
その後、合併の話はトントン拍子に進み、3月12日に加古川市・上荘村・平荘村・八幡村議会でいっせいに合併を決議しました。
3月16日、調印式をへて、昭和30年4月1日、かくて、加古川市上荘町、平荘荘町、八幡町は誕生しました。(no3511)
*写真:旧平荘村役場(写真:加古川市提供)