余話として(3) 中道子山城の話(最終回)
地元の歴史研究家のT氏は次のように述べておられます。
・・・当時、大豪族の習慣として後継者が元服すると同時に寺(寺領)をあてがうのが通例であったことから、円福寺創建は1397年(満祐15才・元服)当時であり、「円福寺護持ノ為寺領ハ高畑の田畑也」と寺伝に見えるのは事実であろう。・・・(「志方郷・第48号」より)
以下は、少し違った話になります。
仏教では、戒名は生前に受戒式に出て、戒名を授かっておくのが本来のあり方としていますが、戒名は普通、死後に授かったものとするのが自然です。
もし、満祐山円福寺が嘉吉の乱(1441年)当時、存在したのであれば、幕府から目をつけられ、取り潰しの対象になったかもしれません。
では、「いつ・なぜ満祐山・円福寺を名称としたのか」という問題になります。
いま、史料があって書いているのではありません。無責任な「ひろかずのブログ」の寝物語として聞き流してください。
嘉吉の乱当時、どうどうと「満祐山円福寺」なんて名乗ることは不可能な状況です。
円福寺は、満祐の鎮魂の寺か?
そこで、つぎのようなことを考えるのです。
嘉吉の乱で、赤松惣領家はつぶれ、いったん歴史から姿を消します。
しかし、赤松一族の大河内家だけは、幕府側に立ち赤松攻撃に加わりました。
大河内家は、幕府側につき満祐を攻撃したのです。
赤松惣領家の攻撃は、その後の大河内家の行動を考えると「いつか赤松家を再興しようと考えてのことだった」と思える節があります。
満祐攻撃後は、大河内家は、幕府から東播磨三郡を与えられました。もちろん志方地方も含まれています。
この時、大河内満政・満直の時代の中道子山城は、まだ城の形態をなしておらず、山上にあったお寺を使ってしていた程度だったと思われます。
が、悲しいことに、その後すぐに大河内満政・満直父子は先に紹介したように、一族により滅ぼされてしましました。
その後、しばらくは中道子山城は、捨てられた城跡のようであったと思われます。
後に、ながい時間をかけて中道子山城は孝橋一族の城としてとして本格的な城構えに作り替えられたようです。
伝承にもあるように孝橋家は、大河内家と何らかのつながりがあったのかもしれません。
とにかく、赤松一族は奇跡的に復活します。満祐を攻めた大河内家のおかげでした。
赤松一族(おそらく、大河内家の関係者)は、中道山の麓の高畑に満祐の鎮魂のための寺として「満祐山円福寺を創建したのか、村にあった寺の名称を変更したのではなかったのか」と考えるのです。 確かめて話ではありません。
これで、中道子山城の歴史を終わります。お読みいただきありがとうございました。(no3496)
*挿絵:円福寺(東志方町高畑)