ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方の城山ハイキングに出かけましょう

2017-03-25 19:03:37 | 中道子山城(志方の城山)

 志方の城山ハイキングに出かけましょう

   4月1日(土)、10:00円照寺集合

      中道子山城を国指定史跡にしよう会

                            (no3522)

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東播磨の中世石塔と文観(4) 常楽寺のはなし

2017-03-25 09:09:18 | 東播磨の中世石塔と文観

        常楽寺のはなし

『大野史誌』から、その歴史を見ておきます。
 「・・・(常楽寺は)正嘉(しょうか)二年(1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残る。
 その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったという。
 永禄年間(1558~1570)、三本城主・別所長治の祈願所となって繁栄していた。
 しかし、天正六年(1578)、羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した。
 延宝二年(1674)徳川家綱のころ、一字を創立する。寺領五石である。
 その後、多聞院・吉祥坊・安養坊・南の坊の四ヵ寺であったが明治三年(1870)三ヵ寺を廃止して、南の坊をのこし、常楽寺と名づけた。・・・」(以上『大野史誌』より)
  『西大寺末寺帳』に常楽寺は、播磨国の筆頭に記されており、西大寺との関係の深い寺院であったようです。

     常楽寺の再興
 また、「常楽寺は正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された」とあります。

 『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と伝えています。

 常楽寺には、西大寺系(伊派)の石工が造った宝塔があります。

 再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろではないかと想像されます。当時、文観は37才でした。
 文観は、すでに西大寺の実力者として活躍していました。
  
  常楽寺は西大寺の末寺 
 『信仰の美術』(加古川文化センター)の記述をお借りします。
 「・・・・現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、1201~90)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には、播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる。・・・・」
 常楽寺は西大寺の系列の寺、つまり真言律宗の寺であると断定してよいと思われます。(no3521) 

 *写真:現在の常楽寺(加古川市加古川町大野)

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