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私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

敗戦による最大の被害は精神力の破壊

2002年12月02日 23時44分32秒 | 伝統・文化・歴史
  慶応大学での講演が中止になった台湾の李登輝氏の幻の講演原稿が教育現場で反響を呼んでいる。産経新聞に掲載された講演原稿には全文を通して、日本人の精神に誇りを持つように語られており、戦後の日本人が失ってしまった台湾で農業近代化を成功させた日本人技師、故八田與一氏の例を上げ、日本人の精神の素晴らしさを伝えている。

 先の戦争によって失った人的物的な被害も極めて甚大であるが、占領軍による日本の歴史に対する誇りと、昔から大切にしてきた道徳を否定する精神力の破壊が、敗戦によって受けた被害の中では最大のものではなかろうか。

 戦争中、日本が頑強に抵抗を続けたのは、その強い精神力であったことは紛れもない事実である。その精神力を喪失させ、2度と日本人が強い精神力を持つことをないように占領軍は画策し、特に教育の民主化と図るとして、今でも反日教師が多数いる日教組を作らせ、過去の日本はすべて悪で、日本人としての誇り失わせる徹底的な反日教育を実施させたのである。
 その筋書き通り、今は世界で一番精神力のない日本人となってしまったことを李氏は嘆き、昔の日本人のようには精神力を取り戻して欲しいことを訴えたかったのであろう。
(2002/12/02)

この記事は「今日のコラム」
「敗戦による最大の被害は精神力の破壊」
としてHPに掲載されていたものです。


大東亜戦争は閣議決定された正式呼称名

2002年11月27日 23時52分55秒 | 伝統・文化・歴史
  昭和20年8月15日に終戦となった、あの戦争は「太平洋戦争」と呼ばれているが、その呼称名は、連合軍のよって後で付けられたもので、正しくは大東亜戦争と言うのが正しい。それは、当時の閣議で決定された正式な呼称名であり、それを東京裁判史観が解けないまま、太平洋戦争という連合国から押しつけられた呼称名を、戦争に負けたのだからと言って後生大事に使っているとは困ったものである。

 であるから、あの戦争のことを大東亜戦争と言っても、思想信条とは何ら関係がないと思うが、新聞によれば、金沢市のビル防水会社が昨年の入社試験の問題に「大東亜戦争(太平洋戦争)とその歴史経過」を出題したところ、金沢公共職業案安定所が、「受験生の思想信条の自由を侵しかねない。団体がきたら困るでしょう」と問題を変えるように要求したという。

 大東亜戦争が誤った戦争であったか、あるいは自存自衛のためにやむ得なかったか、今でも論争が続いているが、それが試験問題としてなぜ不適当なのであろうか。この会社が戦争の歴史的経緯を問う問題をなぜ出題した理由は、高卒者向けの入社試験問題とのことであるが、膨大な人的物的な損害があった過去の戦争の事を、戦争のことを知らない若者がどう考えているかを知りたかっただけであり、内容はどうであれ、このような問題をまともに書けないような高卒者では採用できないとしたのではなかろうか。
(2002/11/27)

この記事は「今日のコラム」
「大東亜戦争は閣議決定された正式呼称名」
としてHPに掲載されていたものです。


次世代に伝えよう美しい日本の唱歌、童謡

2002年11月25日 23時24分19秒 | 伝統・文化・歴史
 教科書から美しい日本の唱歌、童謡が次々と消えようとしている。文化遺産でもあり日本の心とも言える、このような歌が反日日本人の策謀により消えて行くことは断じて阻止しなければならない。山、田圃、畑、小川などが近くにない都会に育った方は、このような歌の中に自分の故郷を見つけて、あたかもそんな風景の下で育ったような思いになるだろう。

 日本は四季の移り変わりがはっきりしており、そのような多彩な気候と自然景観から醸成される文化は、歌の中にも多く現れ、日本の風土の多様性を示している。日本人であるなら、はるか異境で、このような歌を聞いたり、また歌えば、故郷や両親、兄弟、友を思い郷愁にかられるのではなかろうか。

 そのような中、11月23日に東京で「歌おう日本のこころ 親と子の唱歌・童謡コンサート」が開かれたとのこと。第1部では「教科書から消えた唱歌、童謡」として「月の砂漠」「村の鍛冶屋」「浜千鳥」などの歌が披露され、その後は、産経新聞の横田正論調査室長が講演し、文化遺産であるこのような歌を次世代に伝えて行くことの重要性を説き、第2部では、「愛され続ける日本の歌」として、「紅葉」「赤とんぼ」「故郷」などを会場全員で歌ったとのことである。歌いながら涙を流された方もおられたことであろう。わずか13歳で北朝鮮に拉致され、死亡したとされる横田めぐみさん。この歌声が聞こえましたか。
(2002/11/25)

この記事は「今日のコラム」
「次世代に伝えよう美しい日本の唱歌、童謡」
としてHPに掲載されていたものです。


熱海・伊豆山の「興亜観音」を参拝して(2)

2002年08月03日 22時10分55秒 | 伝統・文化・歴史
~赤軍派によって爆破された殉国七士の碑~

 まもなく8月15日の終戦記念日が巡ってくる。この日が近づくと、左翼マスコミは、過去の戦争のよる大きな犠牲は、誤った軍国主義の結果だとして、戦前の日本はすべて悪であり、これを糾弾し、戦争責任を追求するキャンペーンに特に力を入れ始める。

 同じ日本人でありながら、英霊を冒涜し、過去の戦争当時のことを、今日の人権感覚であげつらい、「もっと日本軍が悪いことをしたことはないのか」と色々探し回る人の病的ともいえる振る舞いや、違法な行動を私は許すことは出来ない。

 熱海・伊豆山の「興亜観音」も、そのような人の標的になり、昭和46年には殉国七士の碑が赤軍派によって爆破されたことがあるとのことで、写真でもお分かりの通り、復元されているとはいえ、大きく3つに壊れた跡が見られる。

 この「興亜観音」には、あの戦争の後に行われた東京裁判でいわゆるA級戦犯として処刑された広田弘毅、松井石根、東條英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の殉国七士の遺骨が埋葬されているほか、B、C級戦犯として殉難(じゅんなん)死された方1、061名の御霊を併せてお祀りされている。

 東京裁判は果たして正しい裁判であったのであろうか。私は東京裁判に関する書物を何冊か読んでいるが、勝者が敗者を一方的に裁いた法を無視した不正義の裁判であると思っておいる。たとえば、当時罪として存在しなかった「人道に関する罪」「平和に対する罪」を裁判の始まる前に急遽作るなど、罪刑法定主義に触れることが平気で行われたのである。であるから、この裁判は戦勝国は敗戦国を復讐のもとに法を無視して裁いたもので、まさに裁判の名に値しないのだ。

 この裁判に途中から判事として参加してインドのパール氏は、全員無罪の判決を下しているが、国際法の権威であったパール氏は「法を正しく適用したにすぎない」と述べており、いまではこの裁判は法を無視した復讐劇であったことが国際法学者の中では常識になっている。また忘れてはならないのは、いわゆるB、C級戦犯として、横浜や世界各地で行われた裁判のことである。これも裁判とは名ばかりで、多くが伝聞証拠や人違いなどであったのにも関わらず、あわただしい裁きを受け1、061名の方が処刑されている。

 戦争が終わり、日本に復員して、幸せな新婚生活を営んでいた旧日本軍人がある日突然身に覚えがない罪で呼び出され、一切の弁解を許されず絞首刑になることが平然と行われたのである。上坂冬子著「償いは済んでいる・忘れられた戦犯と遺族の50年」に、この名もないB、C級戦犯のことが書かれているが、涙なしには読めなかった。  

 極めて残念なことだが、いまだ日本人の中に東京裁判史観を持つ者が多く、であるからして、この裁判が実にでたらめな単なる復讐劇であることを知って欲しいと思う。それは、罪刑法定主義を無視している他、いわゆるA級戦犯と呼ばれた者は昭和天皇のご誕生日である4月29日に起訴され、今上天皇のご誕生日の12月23日に死刑が執行されていること。また遺骨を頂きたい旨を申し出た遺族の意向を連合軍最高司令官のマッカーサー元帥は拒否している事実などからである。

 熱海・伊豆山の「興亜観音」は、横浜市の久保山斎場で火葬にされた殉国七士の遺骨を、連合国側に見つからないように、密かに盗み出して秘匿した地であり、それが、この興亜観音の露仏像下の岩場であるという。連合国側が、憎しみのあまり、日本の風習まで無視して遺骨の引き渡しまでも無視するとは、まさに執念深い裁判であったといえるだろう。

 日本が再び戦争の惨禍を招かないようにするためには、英霊に感謝して慰霊の誠を捧げ、また歴史を正しく認識することである。私は、今後も機会あるごとに、この興亜観音を参拝して、英霊の御霊をお慰めしたいと思っている。
(2002/08/03)

写真:殉国七士の碑

この記事は「私の主張」第133号
「熱海・伊豆山の『興亜観音』を参拝して(2)」
~ 赤軍派によって爆破された殉国七士の碑~
としてHPに掲載されていたものです。


熱海・伊豆山の「興亜観音」を参拝して(1)

2002年07月25日 22時33分22秒 | 伝統・文化・歴史
~参拝する人も少ない、英霊に感謝と慰霊の誠を捧げる地~  

 小田原から伊豆半島の東海岸を通る道路は国道135号線と呼ばれているが、その国道を車で走っていると、山が道路脇まで迫っている静岡県熱海市伊豆山に「興亜観音」がある。

 「興亜観音」は先の大戦における戦没者が祀(まつ)られていると聞いていたが、何度か用事でその近くを通っていても、一度も訪れたことはなかった。

 先日、気温が30度を越していると思われる日であったが、用事が早目に済んだので、どのような所であろうと思い、参拝することにした。

 国道上にある興亜観音と書かれたバス停留所から見える参道はかなりの急坂で、私の中古車では登るのは無理と思い、少し熱海市内に寄った道路脇の空地に車を駐車して、人影が全くない延々と続く急坂を登りはじめた。舗装はされてはいるが、先日の台風でかなりの雨が道路上を流れたのであろうか、石や泥、枯れ枝などが道路脇に堆積しており、自動車が通れる位の幅はあるが決して歩き易い道とはいえなかった。  

 ムア-とする暑さの中、汗が滴り落ち、タオルで何度も拭う。道の両側の木々の枝が道路にはみ出しており、普段は歩く人もいないのであろうか。廃屋となった住宅の前を通り過ぎると、T字路になったところの道路脇に、体の半分は生い茂った夏草に隠れていたが、おだやな顔の2体のお地蔵さんが立っていた。

 さらに延々と続く急坂を登る。行けども行けども「興亜観音」には着かない。この先に本当に「興亜観音」があるのだろうかと心配になってくる。すると道路脇に小さな「興亜観音参道」と書かれた手作りの看板を見つけ、この道に間違いないと思い、さらに急坂を登ると、車が通れる位の幅のあった道が急に狭くなり、そこには簡素な門が設置してあった。  

 すると、そこにおられた作業着姿の中年女性に「よくお参りなさいました。もうすぐですから」と声を掛けられる。私が「ちょっとお参りに」と答え、門をくぐると、中央だけがコンクリートで固められた狭い山道となる。まもなく「ひとやすみ」と書かれた東屋の前を通り、さらに登ると、周囲はうっそうとした樹木に囲まれているが、やや開けた所に、露座の興亜観音が立っていた。

 褐色の陶像の興亜観音は優しく柔和な慈悲にあふれたお顔をされており、眼下に広がる相模湾の方に向かい合掌されている。また少し離れたところに、いわゆるA級戦犯として処刑された広田弘毅、松井石根、東條英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の「殉国七士の碑」、またB・C級戦犯として処刑された者1068名の供養塔、戦没将士の慰霊碑の3つが並んで建っていた。  

 その場所にいると、過去の戦争によるこのような多くの犠牲があるからこそ、今の平和が享受出来るのだと感慨深いものを感じた。すると、そこへ玉虫が羽音をたてながら、私の周りを2周して、飛び去って行った。美しい羽根を持つ玉虫を見るのは数年ぶりだが、昆虫までも今日の参拝をあたたかく迎えてくれた。

 その碑のすぐ先には相模湾の眺めが素晴らしい観音堂があり、正面には高さ2尺の興亜観音が祀(まつ)られており、その左右に日中両国の戦没者の霊牌が祀られている。また松井大将の遺影や、東京裁判で、起訴された被告人に全員無罪の判決文を書いたインドのパール判事の写真も飾られていた。ここは英霊に感謝する地であるのにもかかわらず私以外には参拝者の姿もない。  

 観音堂の中には、作務衣姿の中年女性がおり「このような暑い日に、ご参拝いただきありがとうございます。お茶をどうぞ」と言って冷たい麦茶を出してくれた。作務衣姿の中年女性から「興亜観音」のいわれ等について説明を受けたが、ここは日中両国の戦没者の霊を弔うために昭和15年、松井石根大将が建立された観音さまで、松井大将はここで朝夕お経をあげ、敵・味方の区別なく戦没者の霊を供養されていたという。私は、相づちを打ちながら説明を伺っていると不覚の涙を流してしまった。どうして涙が出てくるのであろうか。  

 戦後、誤った東京裁判史観による禍で、戦前の日本はすべて悪であったという風潮を醸成され、日本精神が失われてしまった。英霊に感謝して慰霊の誠を捧げて、これを顕彰するのは国民の務めであるという当然の行為が危険視され、日本民族の魂や誇りが喪失し、英霊が冒涜されている状態である。また中国、韓国からは小泉首相の靖国神社への参拝まで文句を言われている。私はこのような今の日本の現状を憂い、東京裁判史観から脱却しない限り英霊の安らぎはないと主張せざるを得ない。

 参拝される方が1人も見えられない日もあるという寂しいお話を伺い、どうか1人でも多くの方が「興亜観音」を参拝され、その護持に協力し、誤れる東京裁判史観を打破され、日本人としての誇りを持たれることを希望するものである。
(2002/07/25)

写真:興亜観音

この記事は「私の主張」第132号
「熱海・伊豆山の『興亜観音』を参拝して(1)」
~ 参拝する人も少ない、英霊に感謝と慰霊の誠を捧げる地~
としてHPに掲載されていたものです。


感動的な「国歌・君が代」の斉唱

2002年06月09日 22時52分17秒 | 伝統・文化・歴史
~私達が日本人であることを意識するワールドカップ大会~  

 日韓共同開催によるワールドカップ大会が始まった。このような国際大会では、試合がはじまる前に対戦する両国国旗の掲揚と、国歌の斉唱があるのが慣例となっている。  

 ところが、わが国では教育に携わる先生方の中に、サヨクイデオロギ-に毒された人が多く、教科書には国歌・君が代は掲載されているが、生徒・児童に敢えて教えないということが散見されると言う。

 私の娘が小学生だった時、教科書に国歌・君が代が掲載されていたので、私が「君が代は覚えたか」と聞くと、娘は「この歌は両親に教えてもらいなさい」と先生に言われ、学校の授業では教わらなかったそうである。私は、そんなことでは、日本人として恥ずかしいと思い、正しく歌えるまで教えた覚えがある。

 であるから、親にも先生にも教わらない子供は、日本人でありながら、国歌・君が代を知らず、国際試合などで対戦する両国の国旗の掲揚や国歌の斉唱の際のマナーも知らず、起立しなかったりして、他国の観客のひんしゅくをかっていることも決して不思議ではない。  

 しかし、そんな先生方の努力?も空しく、6月4日に行われたワ-ルドカップ大会の日本の初戦となった対ベルギ-戦での会場全体に響き渡る「国歌・君が代」の斉唱には感動した。観客が「にっぽん、にっぽん」を連呼して、手作りの国旗・日の丸を掲げ、また振り、応援をする様子に、試合会場にいる人は勿論、テレビで見ている人も、私達が日本人であることを最も意識する時であった思う。

 試合の様子は、海外にも中継されたであろから、特に、遥か異国の地で、この中継を見ていた在留邦人の方の中には、試合をご観覧されておられた皇太子同妃雅子殿下のお姿や、会場を埋め尽くす、国旗・日の丸に感涙された方もいたのではあるまいか。  

 日本人であれば、自国のチ-ムを応援し、「にっぽん、にっぽん」を連呼し、国旗・日の丸を振ることは、当然のことだが、君が代も日の丸も認めないサヨクの連中は、この熱狂的なサポ-タ-の姿を見て、どう思っているであろうか。

 素晴らしい国歌・君が代、美しい国旗・日の丸を持つ日本に生まれ、本当に幸せで、また誇りに思う。今回のワ-ルドカップ大会を機会に、国歌・君が代を日本人として胸を張って高らかに歌い、国旗・日の丸に頭を下げ、また大事にする人が一人でも増えることを願って止まない。
(2002/06/09)   

この記事は「私の主張」第119号
「感動的な『国歌・君が代』の斉唱」
~私達が日本人であることを意識するワールドカップ大会 ~
としてHPに掲載されていたものです。


美しい日本の叙情曲

2002年05月04日 17時36分56秒 | 伝統・文化・歴史
~失われつつある日本の心~   

 私は、車に乗っている時や、パソコンの前にいる時のBGMは、ほとんど日本の叙情曲を流している。赤とんぼ、故郷、夕焼小焼、花、七つの子など、季節を問わず色々な叙情曲を聞いているが、何度聞いても飽きないし、美しい旋律は、いつも心を癒してくれる。

 田舎に故郷のある人は、幼いころ遊んだ野山の情景や、若かった学生時代や父母との思い出が蘇り、また都会で生まれ育った人でも、目を閉じて、このような曲を聴いていると、曲の中に、あたかも自分の故郷を見つけたような気持ちになり、日本人であれば、思わず感涙することもあるだろう。  数年前に「オーケストラで綴る抒情名曲アルバム」という8枚組のCDを買ったが、曲の歌詞集が付いており、その中にダ-ク・ダックスの皆さんの話が紹介されている。

 ダ-ク・ダックスの皆さんは世界各地に公演に行かれるそうで、外人相手のコンサートを開いても、その国に住む大勢の在留邦人の方が来られるとのこと。そこで、日本人の心の歌と言っても過言ではない、日本の叙情曲の代表ともいえる、赤とんぼ、故郷などを歌うそうである。すると歌っているうちに、ほとんど全部の在留邦人の方が涙を流されるとのこと。

 遥か異国の地で日本の心とも言える叙情曲を聴き、わが故郷、わが祖国日本に思いを巡らせるからであろうか。涙の中に心の安らぎが広がって行くのか分かるそうで、なんとも言えない感動的な場面だと思う。

 また、私の山歩きの仲間になっている女性の話であるが、数年前、山登りに行くために、その仲間達と一緒に車に乗っている時でした。私が、いつものように日本の叙情曲を流していると、その女性が涙を流しているのがル-ムミラ-に写ったので、私が「どうされました」と尋ねると、「病気で寝たきり母を数年間、看病をしている時、枕元で、このような叙情曲をいつも聴かせていました。母も大変喜んでくれましたので、その事を思い出してしまいました」とお話になったので、私は、何と返事をしたら良いか一瞬迷ったが「それは良かったですね」と答えたところ「涙なんか流して、申し訳けありませんでした。でも、日本の叙情曲は良いですね」とお話になり、後は言葉にならなかった。

 ところで、このような素晴らしい日本の心とも言える叙情曲が少しづつ教科書から消えようとしている。一つの文化とも言える叙情曲が消滅することは許しがたいことである。思想的に偏向した歴史教科書に憂いた人々が、新しい歴史教科書を作り、それが文部科学省の検定に合格すると、左翼に連中は、あらゆる手を使い、全国各地で採択反対運動を展開し、教育委員会に圧力を掛け、その教科書の出版会社に放火する事件を起こしている。自らの思想に反することは、どんな手を使ってのも阻止するという左翼の手口は絶対に許す事はできない。

 子供達が、このような日本の古くから親しまれている叙情曲を歌い、また聴くことにより、日本人としての誇りや、喜びなどを持つようになるだろう。歌詞が古いとか意味が不明とか、今の時代に合わないとかの理由で、このような美しく、また素晴らしい感動を呼ぶ叙情曲を教科書から消そうとする勢力の策謀を許してはならない。
(2002/05/04) 

この記事は「私の主張」第109号
「美しい日本の叙情曲 」
~失われつつある日本の心 ~
としてHPに掲載されていたものです。

  

「仰げば尊し」にまつわる心暖まる出来事

2002年03月31日 20時49分50秒 | 伝統・文化・歴史
 最近は卒業式で「仰げば尊し」をあまり歌わないそうだが、この歌にまつわる心暖まる出来事が以前ある新聞に掲載されていた。ある中学校で、卒業をまじかに控えた生徒の一人が、卒業式の式次第に「仰げぱ尊し」の斉唱がない事を知り、他の卒業生に「皆で仰げば尊しを歌おう」と呼ぴ掛けたそうである。  

 当然、式次第にはないことから、先生や父母には相談せず、卒業生だけで、何時どのように歌うかこっそり決めたそうである。そして、卒業式当日がやってきた訳であり、式は厳粛にうちに進み、最後に教頭先生が、「これで卒業式を終ります」と言って演壇から降りようとした時に、一人の卒業生が突然演壇に掛け上がったとのこと。先生方は驚いて、とんでもない事が始まると思ったところ、その生徒の指揮で「仰げば尊し」の斉唱が始まったそうである。「仰げば尊し、わが節の恩、教えの庭にもはや幾年、思えばいととし、この年月、今こそ別れぞいざさらば」しかし、卒業生の皆さんは曲の途中から涙があふれ出し、うまく歌うことが出来なくなり、先生方も共に感涙してしまったとのこと。

 その後、在校生と先生方が並んで卒業生を送る際にも互いに涙で目を赤く腫らしながら、抱き合ったり、手を握ったりする光景が続いたとのことである。何とも心暖まる出来事ではないか。まさに一つの曲が一生忘れられない素晴らしい思い出を作ったと言って良いであろう。

 このように、日本の抒情歌には、四季のうつりかわりや、行事、旅立ち等に因んだ美しい歌が沢山あり、日本人の心に訴えるこのような抒惰歌を聞いていていると、この国に生まれて本当に良かった思うこの頃である。
(1999/05) 

この記事は「私の主張」第97号
「『仰げば尊し』にまつわる心暖まる出来事 」
としてHPに掲載されていたものです。
なお、かなり前に書いたものであるため、作成日の記録が見
つからず、作成年月のみの記載となります。またアーカイブ
として作成年で登録するとエラーとなるため暫定的に2002年
3月
に作成したものとして登録しています。