言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『パンセ』と吉田先生

2016年11月29日 08時37分35秒 | 日記

 吉田好克先生は、かつて『月曜評論』に「『パンセ』を読む」を連載されてゐた。毎号楽しみにしてゐて、ほとんどは取つてあるが、今回上梓された本にすべて収録されてゐる。

 戦後三回目のパスカル全集が白水社から刊行されてゐるが、吉田氏も訳に加はつた第一巻二巻のみの出版で、以後は未刊である。パスカル学徒の吉田氏としても残念のご様子。

 「『パンセ』を読む」については、のちのち触れるとして、まづは本書の「前書き」から。知識人批判の文脈で、『パンセ』が引かれてゐる。

「民衆と識者が世間を動かしてゐる。中途半端な識者はさういふものを軽蔑し、却つて軽蔑される。彼らは全てにおいて間違つた判断をするが、世間の人々は正しく判断する。」

 「中途半端な識者」といふのがいい。確かにさういふ人がテレビに出、コメントをするのであらう。平日の昼にテレビでコメントをする人のことを言ふのではないか。新聞で書いてゐる人もさういふ人もゐる。単眼でものを見てゐる人、庶民の見方といふ名のお為ごかし、半可通の知識ひけらかし、さういふ人はすべて「中途半端な識者」であらう。

 生きていくとは汚れていくことだといふことの深い諦念と、さうであるがゆゑにあまり他者を攻めすぎないといふ自戒とがない言説は、私には「中途半端な識者」の声にしか聞こえない。そして、さういふ人物が大手を振つて闊歩してゐるのが、この社会の現状であるやうに思ふ。

 「世間の人々は正しく判断する」とも思へないが、隠れた逸民が社会を支へてゐるといふことを信じてゐる。

 

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