言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

問題を抱へた人だから教師になるといふ逆説。そして、それを教師が言つてしまふことの逆説。

2016年11月25日 11時58分53秒 | 日記

 はじめに引用から。

「教育はいつも、じぶんは不完全だという自己認識のなかでいとまなければならないとおもう。より完全なおとなが、未熟でものごとを知らない子どもに対しておこなうものだという幻想から、離れねばならないとおもう。逆に、不完全なものとしてのじぶんが、不完全であるがゆえにいろいろ痛いめにあい、苦労してきたことを、子どもが一からくりかえすことのないよう、しかと伝えるようなものでなければならないとおもう。」

 自分のことを棚にあげて、何とも厚顔無恥な態度かと思はれるかもしれなが、これが哲学者の鷲田清一の文章(『おとなの背中』)だと知れば、多くの人が「なるほど」と納得してしまふだらう。言葉は、意味とは別の次元で、それが誰によつて語られたのかといふ文脈で考へなければならないものである。

 ソーカル事件(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6)といふものがその典型的な例である。

 しかしながら、上の文章は鷲田氏が語らうが誰が語らうが、その通りであると思ふ。内省といふ作業をその一方で継続しておこなふことが条件であるが、自己の欠点に気づけなければ教育に関はることはできないのである。教育のモデルは、「私のやうになれ」ではなく「私のやうになるな」であるといふのは極めて皮肉なことである。がしかし、それがカルチャーセンターの講師や、スポーツのコーチと教師とが違ふところである。

 自分の欠落に気づけなければ、学びを発動することはない。これから学びを発動させようとする青少年にたいして、その発動のきつかけを一緒に捜さうとするのが教育であり、それに携はる人物は、自己の欠落に気づき、それを埋めようと苦心した経験を持つことが必須である。

 もちろん、そんな人間が現職の教員の数だけゐるとは考へられないから、さういふ人がゐてほしい、あるいはゐてもよいといふのが現実的な見方であらう。

 そして急いで付け加へれば、自己の欠落の埋め方が万民に当てはまるとは考へてはならないし、かういふ方法もあるのではないかといふ形でしか伝へられないと断念すべきであるといふことである。

 欠落者は教師に向いてゐるのではないか、といふこと自体が逆説的ではあるが。

 

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