言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「さきがけ」と「しんがり」

2016年11月22日 08時53分01秒 | 日記

 社会が大きく変はらうとしてゐる。

 これまでのやり方ではうまくいかないことが多い。特に教育の現場にゐると、これまでなら通用してゐたことではまつたく立ち行かない状況といふものに出会ふことがある。

 身体的な苦痛を伴ふ罰則などはその典型であるし、その是非を考へる前に問答無用といふことになつてゐる。あるいは、精神的な負担を感じてゐる生徒にたいしては専門家の意見を基に教員が指導する。

 大きくまとめれば、教員の仕事が専門家の下請けになつてゐるといふことである。あるときは教育学者から、あるときは精神科医からの「アドバイス」にしたがつて行動すべきといふのが時代の要請である。

 なるほど知識や技術は専門家の発言を尊重した方が良い。それは正論である。しかし、果たしてそれでうまく行つてゐるだらうか。二言目には「専門家の意見を聞いてから」といふことが常態になれば、教員の質は劣化し、目の前にゐる生徒の状況を正確に捉へる「目」の力が低下することになりはしないか。

 すべて棚上げ、結論の先送り、その結果事態は改善するどころか、悪化していくことさへある。目の前の生徒の言葉を聴き、周囲の様子を見、いま何が起きてゐるのかを瞬時に判断し、最善の方法を取る。そのことのうちに教師の経験は厚みを増していくのである。すべて「お任せ」で、教室の管理人としてのみ職能を規定すれば、教師は教へることすら満足に果たすことができなくなるであらう。

 もちろん、研鑽は必要である。それを怠つた結果が今日の「教師下請けモデル」が完成したのであらう。しかし、このままで学校、教室がよくなるとも思へない。

 ところで、「さきがけ」といふのは先頭を切る人間のことである。明治維新以来の近代化の推進場所は学校であつた。教科、衛生、遵法の指導を実践してきたのが学校である。それはまさに「さきがけ」であつた。そして、そこから生まれた人材が次の世代を導く世代を構成していつた。

 しかし、今日ではそれだけでは不十分である。山を登りきり平らな場所に出てみると、多様なベクトルが交錯する混沌の世界が待つてゐた。人々はどこを目指すのでもなく、ただ彷徨つてゐる。そんな中では「さきがけ」ていくべき方向も定まらない。哲学者の鷲田清一は「しんがり」を務めることが今後のリーダー像であるとも述べるが、よくよく考へて見ると、しんがりといふのも行くべき方向が定まつてゐるから存在するのである。退却を余儀なくされた部隊がいかにうまく撤退できるかを思案するのが「しんがり」である。つまりは、後方支援リーダーのことである。

 「さきがけ」も「しんがり」もうまく機能しないのではないか。方向のない時代の指導のありやうは、「戦争」モデルのリーダー像では捉へられないものである。そんな風に思ふ。

 いまはここまで。

 

 

 

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