言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「多数決だけが民意なのか」を今ごろ語ること。

2016年11月23日 17時12分50秒 | 日記

 今週の月曜日、11月21日の読売新聞が、慶應義塾大学経済学部の坂井豊貴教授に訊いたインタビューを載せてゐた。

 「多数決だけが民意なのか」といふ題の論考である。これまで、坂井氏は、『多数決を疑う』『「決め方」の経済学』などを書かれをり、突然主張を変へたり、強弁し始めたりしたわけではない。しかし、次のやうな言葉を読むと、真意がどこにあるのかが分かつてしまふ。

「今月の米大統領選でも、候補者を絞り込む予備選の段階でボルダルールが取られれば、多くの人に不適格とされたトランプ氏は、共和党候補になれなかったかもしれない」

「安易に多数決に頼るのは、思考停止というより『文化的奇習』だ」

「得票率が数%しかない候補・勢力が政治に死活的な作用を与えてしまうことは、誰が悪いというより制度が悪い」

 下の二つの意見は、一般論としては正しい。しかし、一番上の発言を根拠付けるために言はれたものであるとすれば、さらに大統領選の直後の言葉であることを考へれば、極めて政治的な発言になつてしまふ。有り体に言へば、「トランプ勝利には納得がいかない」といふことである。このインタビューの最後は「より賢明な選択ができる決め方に、変えていかなければならない」で締めくくられてゐる。ここまでくれば、語るに落ちた話で、今回の選挙は「賢明な選択ではない」といふことが言ひたかつたのであらう。さらにうがてば、読売新聞もそれに同感でそれを言はせる識者として坂井氏を「選択」したといふことである。

 もし、その主張が正しいと考へるのなら堂堂と主張すれば良い。しかし、その主張を説得的なものにするために、選挙のあり方といふ制度論に基づいて展開するのは、卑怯である。読売新聞は読売新聞で、トランプ選出が誤りだと思ふのならそれを社説で書けばいい。経済政策を批判することでお茶を濁すのではなく、「賢明な選択」を国民はしなかつたと書けばいい。書けるはずはない。

 坂井氏の主張は、今回の選挙とは関係なく考へるべき問題である。しかし、現時点でこれを言ふことは、まつたく違つた文脈を作り出し、生産的な議論を生み出さないことになる。

 じつに残念だ。

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