言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

昨日は、福田恆存先生の御命日

2016年11月21日 14時00分28秒 | 日記

 11月20日は、福田恆存の命日である。ブログで書かなかつたので、何人かの読者から「何か書かないのか」といふやうなニュアンスのメールを頂戴した。

 平成6年に亡くなられたから、今年で22回目の命日である。もうそれほどになるのかといふ感慨が強い。その文業の成果は、ますます評価を高め、第三世代に受け継がれてゐる。

 第一世代  土屋道雄、谷田貝常夫、中村保男、松原正、臼井善隆、西尾幹二、佐藤松男、由紀草一、井尻千男、(西部邁)の各氏

 第二世代  坪内祐三、遠藤浩一、新保祐司、富岡幸一郎、金子光彦、土井義士、(福田和也)の各氏

 第三世代  川久保剛、岡本英敏、浜崎洋介の各氏。

 私は第二世代である。著者と面識はないが(あるいはあつても非常に薄い関係)、同時代に生きてゐた研究者である。第三世代は、この二十二年間に福田恆存の文章に触れ、研究を始めた世代である。今後は、この層が厚くなつていくことになる。

 第一世代は、物故者も出てをり、時代の流れを感じる。ご子息の逸氏も還暦をとうに過ぎてゐる。劇団はすでに別のものになつてゐるし、書かれた文章によつてのみ、福田恆存は理解され書かれ語られていくのであらう。

 それでも、その文章がある限り、福田恆存は永く私たちの生き方のなかに生きていくものと思ふ。

「私は個人の主張などといふものに、もはやなんの興味も感じない。(中略)シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。シェイクスピアは私たちに、なにかを与へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが、劇といふものなのだ。それが、人間の生き方といふものなのだ。」(『人間・この劇的なるもの』)

 

コメント (3)
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