言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時代の貧しさ――逃げ切らうとする人の作り出す未来

2016年11月01日 11時40分30秒 | 日記

 福田和也のエッセイに「思惟の畔にて」といふものがある。かつて『新潮45』に連載されてゐたもので、本になつてゐるのかどうかは分からない(最近は、福田和也の文章を読まなくなつた。デビュー当時の精彩がないのは、とても残念である。落ち着いてしまつたのであらうか。内面から溢れ出るやうな情念とそれを言葉で制御するときのきしみ音や壊れ具合が魅力であつたが、どんと構へて対象を腑分けしてゐるだけのやうな印象がこの10年ぐらゐは続いてゐるやうに思ふ)。その4回目は福田恆存についてである。サブタイトルには『総統いまだ死せず』といふ福田恆存の戯曲の名がつけられてゐるが、その作品については最後にそろりと出てくるだけである。

 全体が良質な、本当にいい印象の残る福田恆存論になつてゐる。2013年の3月号に掲載されたものであり、私は当時は知らなかつた。最近、国会図書館のHPで検索してゐて面白いと思つたので取り寄せて読んだのである。相変はらず、引用が多い論考であり手抜き感がないではないが、それも絶妙な質と量であるとも言へなくもない。だがその引用部分が実に的確であるのだから、やはり「絶妙」なのである。

 『新聞のすべて』は福田恆存編ではあるが、様々な人々との座談会で構成されてゐる本である。その中から福田恆存以外の方の発言を引用して、「恆存先生の問題提起は、誠に啓蒙的なものだったと思う。/と、同時に、こういった議論を主導せざるを得なくなった――と敢えて云うが――、時代の貧しさを、誰よりも感じとっていらしたのだ、とも思う。」と書いてゐる。

 新聞社のタブーとは、自社の汚点を報道しないこと。それを批判するのは今では当たり前のことであるが、『新聞のすべて』が出版された1970年代には完全なタブーであつた。それを批判するレベルでしか新聞批判をできないことを指して「時代の貧しさ」と和也は書いてゐるのであるが、その言葉はじつはもつと重たいものを指してゐるとも思ふ。

 現代にはその当時のタブーはもはやない。しかし、タブーの種類は変はつてもタブー自体は残つてゐる。それが悪いのではない。タブーはいつの時代もあるのである。問題は、タブーがあることを見ずに、もはやタブーは無くなりましただとか、「タブー無き言論」などといふ大言壮語を撒き散らして臆することのない厚顔無恥振りが「貧しさ」なのである。福田恆存流に言へば、自己欺瞞の風から決して免れてゐないといふことである。

  いい政治家がゐない、いい文学者がゐない、いい科学者だつて、いい先生だつてゐない。さういふことは世の中を見る前に、自分を見れば分かる。正しい姿、理想像を持たずに、単純に「誰もが幸せに生きる世界」を求めたことの代価なのではないか、さう思ふ。正しいことの追求には苦しいこともあるといふ当たり前のことから逃れるために、「苦しみのない世界」を求めた結果訪れた「より苦しい世界」なのかもしれない。今さら後戻りすることはできないから進むしかないが、それを承知で生きることと、それを不承知で逃げ切らうとすることとは全く違ふだらう。逃げる人ばかりゐる社会は、本当に貧しい。

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