言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「動的平衡」について

2016年11月15日 08時46分16秒 | 日記

 

 高校の生物の授業でクエン酸回路といふものを習つた。生命活動を化学変化としてとらへた時の反応式であるといふやうなニュアンスだつたと思ふ。

   12+6O+ 6HO  →   6CO+12HO+38ATP

 最後の「38ATP」とはエネルギーのことで、呼吸による酸素補給と食べ物から水と糖質を摂つて生命は生きてゐるといふことであつた。驚きはあつたが、これで生命活動は説明できるのかといふ疑問が沸き起こつた。そこで、私には珍しく職員室にまで行つて質問をした。「先生、生命活動とはかういふことで説明できるのですか」と。ずゐぶん間抜けな質問である。そんな大それたことの説明としてクエン酸回路の説明をしてくださつたのではない。今なら、さうはつきりと言へるが、その時の私は何か生物学といふ学問で生命活動を解明してゐるといつた姿に少々怒りにも似た気分を抱いてしまつたのである。

 先生は、困つたなといふ顔をされてゐたと思ふ。正確に何とおつしやつてくださつたのかは覚えてゐないが、生命活動全体を表現した者ではないといふことを話してくださつたと思ふ。すつきりしない気分で職員室を出た感じを記憶してゐるが、今なら赤面してしまふ思ひ出である。

 とことで、いま福岡伸一氏の「動的平衡」といふ文章を授業で扱つてゐる。

 デカルト以来の機械論的生命観は、すでに過去のものと思ひきや、どつこい今でも健在で臓器移植を推進する発想の根本には、パーツの交換で生命を維持しようといふ機械論的生命観が生き続けてゐる証拠であると言ふ。

 なるほど、さう言はれれば、さうである。

 それに対してシェーンハイマーは、動的平衡としての生命観を主張した。川の水は、たえず変化してゐるけれども、「流れ」は継続してゐるやうに、生命といふものもたえず変化はしてゐるけれども、存在してゐるといふことである。

 「マウスの身体を構成していたタンパク質は、三日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられ、その分、身体を構成していたタンパク質は捨てられたということである。」といふ福岡氏の記述には驚かされた。

 生物は物ではない。物としての身体に生命が付与されてゐるといふイメージだけでも正確ではないやうだ。したがつて、死とは身体から生命が消えていくことといふのでもない(死身体-生命)。物に何かが作用して、活動が始まる。その活動を生命といふのであらう。自然科学者の福岡氏は、その動きを動的平衡といふ言葉で表現した。機械論的生命観も、物としての身体に対する見方であるが、同じやうに動的平衡といふ生命観も、生命が宿つてゐる身体に対する見方である。

 したがつて、生命とは何だらうかといふ問は残されてゐるのではないか。今のところ、さう考へてゐる。

 

コメント (2)
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