言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

取材の質

2016年11月11日 10時25分36秒 | 日記

 昨日の読売新聞に、こんな記事が載つてゐた。

「東京都内の小学1年生の男児(6)が重い心臓病を患い、心臓移植の必要があるとして、この男児の伯母(36)が8日に厚生労働省内で開いた記者会見が虚偽だったことが9日わかった。」

 その男児は実在してゐるが、元気に小学校に通つてゐると言ふ。

 どうしてそんな馬鹿なことをと思ふが、伯母にあたる人には借金があり、その返済にあてようとして思ひついたことだと言ふのだ。厚生労働省内で記者会見をするといふことが簡単にできるものなのか。果たしてどのやうな経緯で実現したのか、それがまづは気になつた。

 その上で裏を取るのが取材のイロハであるといふことなのかもしれないが、「まさか」といふ思ひもないではない。

 しかし、両親が出てこないのは不思議である。「両親はただいま手術するアメリカに行つてゐて・・・・・・」といふのがたぶん説明であつただらうが、そこに疑問を持てるかどうかといふのが、記者の腕であらう。募金した人には気の毒だが、その記者にとつてはずゐぶん派手な「アクティブラーニング」にはなつたはずである。

 それにしても、こんなことを思ひつき、実行してしまふのはすごいことだ。犯罪としては稚拙であるが、稚拙なことを大掛かりな舞台を設定することで実現できると思ふのは度胸のゐることで、女性ならではの犯罪のやうな気がする。

 男は度胸、女は愛嬌とは、それぞれに足りないものを指して言つた言葉である。近年はますますその傾向が強く、愛嬌のある男はたくさんゐるし、度胸のある女もあちこちにゐる。

 クリントン女史に足りないものは、さてどちらかと言へば自明であらう。女性に支持されるためにも、愛嬌は必要なやうである。

 本日は、戯言でした。

 

 

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